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うわじま牛鬼まつりの歴史 |
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うわじま牛鬼まつりの歴史は、昭和25(1950)年頃、商工会議所と商店街連盟が共催して、年に一度は顧客サービスする意味から、各店主の自主的な発想、協力によって商工祭が実施された事にさかのぼります。その当時は、和霊神苑、旧市役所前に大きな舞台を設置して、築地北陽の美妓による日本舞踊、また一般の出演者による、のど自慢、郷土芸能、伊予漫才等、多彩な催しが行われ、その時代のまつりの役割を果していました。昭和32(1957)年頃から、従前の商工祭を商工みなと祭と改め、行事内容をより一層盛り上げるため、自衛隊の体験航海並びに艦内見学、また海上自衛隊の音楽隊による、市中パレード等がつけ加えられました。いづれも4月25日を中心に、3日間の日程で実施していましたが、毎年決まったように雨にたたられ、せっかくの行事も中途半端な催しとなることが多く、やむなく中止することとなりました。その後、首脳部や商工会議所を中心とする、各界各層の方々が慎重に審議した結果、今迄の商工みなと祭を廃止、更に対外的な観光行事として、県外客を誘致する為には、宇和島まつりと銘打ち、大幅な予算を組んで、充実した行事を実施する事が最も良いとの結論に達しました。
そうして、第1回の宇和島まつりを、昭和40(1965)年10月10日の体育の日を選び、快晴の秋空の下に、各種団体による大型仮装行列等が企画実施されました。しかし、体育の日は、周辺市町村において市民運動会等、各種の体育行事が実施され、近郊外来客の足が止まり、内輪だけのまつりの様相にとどまりました。また10月のまつりは、農繁期を控えその上、地方祭があり適当な期日ではないという声が強く、翌年振り出しの形で、余儀なく中止することに決定しました。
一方夏の和霊大祭は、昭和35(1960)年頃より、和霊大祭実施委員会を商工会議所内に置き、和霊神社の祭礼行事を、側面的に協力して戦後の崇敬心を一層盛り立てていました。その間、実施委員会は、すたれ行く走り込みを、是非復活させようと青年会議所が中心となり、参加団体の募集、松明の準備等、物心両面の協力によって、現在の走り込み母体が形成されました。
幾多の障害を乗り越え、宇和島にふさわしいまつりは、どのように実施すれば良いかいろいろ議論された結果、和霊大祭と期日を合わせ、市民総ぐるみの関西屈指のまつりに盛り上げることになりました。
そうして、昭和42(1967)年、第2回の宇和島まつりが企画され、夏まつりの特徴を生かした花火大会、おどり大会、各種の街頭パレード等を華々しく実施し好評を博しました。
過去の貴重な体験から、逐年充実した行事が立案され、そして、郷土色豊かな牛鬼パレード、南国特有の火と水の祭典を、充実する走り込み、水上ショーが盛大に実施され、近年では、水上ショーに変わり斬新な「ガイヤーニバル」が生まれました。年々増え続ける参加があり、夏の一夜を彩っています。
平成8(1996)年、うわじま牛鬼まつりと改称されました。
ガイヤカーニバル |
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宇和島まつりの催しとして、昭和45(1970)年から、毎年「宇和島おどり」が踊られて来ました。「宇和島音頭」に合わせ振り付けたもので、夏祭り公民館活動等の中で、市民に広く親しまれていましたが、過去の宇和島まつり反省会において「曲や振り付けが時流にそぐわない」、「外来来客が自由に参加できるもの」また「若者になじみやすいもの」を考えてはどうかとの強い要望がありました。このような提言を踏まえ、昭和62(1987)年9月、「新宇和島おどり研究委員会」を発足し、鋭意検討した結果、従来のおどりは、市民に幅広く定着しその良さもあるので、永く伝承する事に努め、新しい踊りについては、これから21世紀を担う、若者になじみやすい、しかも情熱的でリズミカルなものを、導入することが望ましいとの結論に達しました。
新しいおどりがまつりを通じて、市民のコミュニケーションの場として、大きく広がり地域の起爆剤となり、宇和島まつり和霊大祭が、四国三大まつりと言われるように、この「うわじまガイヤ」が徳島の阿波踊り、高知のよさこい踊りと並ぶ四国の三大踊りとなるようにとの期待がよせられています。
昭和63(1988)年3月より、募金活動を実施、新宇和島おどりは、芸能界で著名な宇崎竜童(うさきりゅうどう)氏に作詞作曲を、また振り付けは、ピンクレディー等の振り付けで活躍されている、宇和島南高校出身の土居甫(どいはじめ)氏にそれぞれ依頼し、5月、新曲「ガイヤ・オン・ザ・ロード」のロックのリズムにのった「うわじまガイヤ」が誕生しました。
うわじま牛鬼まつりは22日、23日、24日と3日間開催され、その22日夜、まつりの前夜祭として「うわじまガイヤカーニバル」を開催し、盛況に開催されています。
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