経皮脳刺激装置



2020.01.08.




おことわり書き* TMS(Transcranial magnetic stimulation)という装置がうつ病などの治療に用いられています。ここで記載したTCBS(Trans-cutaneous brain stimulation)経皮脳刺激装置、というのはこれをヒントに思い付いた架空の装置で、TMSとは全く関係ありません。


 待ち合わせの時間に遅れないように、僕は30分早く約束の店に行った。彼女は今日も正確に、時間通りにやって来た。
 「待った?でも遅れてないでしょ。」最近の彼女の喋り方は少し冷たい気がする。
 「スイミングかい?」
 「そうよ。」そう答えて、彼女はまだ少し濡れている髪を右手でかき上げた。その指が徐々に変形して来ているのに少し前から気が付いていたが、今日は思い切って尋ねてみた。
 「その、指の間、何か膜の様なものが出来てないかい?」
 「ああ、これね。気が付いた?」
 「それって、水かきみたいに見えるね。」気を悪くさせないだろうかと、心配しながら聞いたのだが。彼女は全くそんなそぶりも見せずに、
「良いでしょ。自分でも気に入ってるの。」と答えて、僕の方に手を伸ばして指を広げた。
 どう話を続けようかと戸惑っている間に、彼女はウェイターを呼び、デザートを注文した。今時ほとんどの店ではテーブルにオーダー用の端末を設置しているが、ちょっと高級なこの界隈の店では、まだウェイターが働いている。
 「フレッシュきゅうり。それと、ラジエーター用の蒸留水もお願いします。」
オーダーした品はさほど待つこともなくテーブルに届いた、普段から注文が多く直ぐに準備できる状況らしい。
 彼女はフレッシュきゅうりを美味しそうに平らげた後、ラジエーターに水を補給し、再びそれを頭頂部に設置した。以前なら、まるで頭に皿を載せているようだとからかっただろうが、TCBSが通常の風景になった昨今では、それは全く普通のオフィスレディの姿である。今日の服装はワンピース、いつものように鮮やかな緑色だ。

 経皮的に脳を刺激する装置は、出現当初は懐疑的な目で見られたが、脳科学の発展に連れ、個人個人の脳波パターンに合わせて空間的時間的に最適の刺激方法が計算できるようになり、今では多くの人々にとって欠かせないアイテムとなっている。もはや電磁パルス無しでは脳が十分覚醒しないと言う者さえ居るほどだ。それはそれで社会問題になりつつある。
 最新型のコンパクトモデルを使用すれば、煩わしいコードも消えてフィールドワークも可能になった。ただ、いくらコンパクトになったと言っても、その時の思考方法や作業内容に従ってベストの刺激パターンを瞬時に計算するには、それなりのエネルギーが必要である。高性能のバッテリーが開発されて、デイリーワークの時間帯はほぼ動力が確保できるのだが、問題は動作時の発熱である。熱がこもるとチップの効率も落ちるし、動作が不正確になってしまう。種々の方法が試みられたが、空冷方式では充分な放熱が出来ず、結局水冷および蒸発熱による冷却が必須である事がわかった。そのため、頭部には蒸留水の貯水タンクを兼ねたラジエーターが装着されている。この方式になってから、機械の動作能力は格段に飛躍した。
 不思議なことに、このタイプのTCBSを装着すると、服装の好みが変化すると言う事態が観察されるのである。それについてはまだ原因は良く分かっていないが、いずれにしても、多くのユーザーが緑色の服を着ていることは事実である。それと、まだこのタイプが普及して日が浅いため、確実ではないのだが、長時間使用者に微妙な身体変化が見られるのではないかとも言われている。手間ひだが拡大していると報告したレポート、味覚指向が変化するという論文が複数出現しているのである。市場調査では特にキュウリの消費量が近年急増していると報道されている。

 「あなたは、まだ付けないの?」と彼女が聞いて来た。
 「うーん、今の仕事はあまり頭使わないからねえ。もう少しの間素のままで行くよ。」そう答えたが、実は各社の装置を既に試している。だが、どの機種を使っても、起動させると手の動きがおかしくなって、字を書いたり、細かい作業をする事が困難になるのだ。脳の働きを増進させる装置が使えないとなると、就職に支障が出るのは必至である。まだ彼女にはそれを話していない。

 「じゃ、これから午後の仕事があるから、先に行くわね。」
彼女は、最近買い替えたお気に入りのバッグを背負うと、そう言って先に店を出た。窓際の席に座っている僕に手を振って、オフィスに向かって急ぐ彼女の後ろ姿の、背中のバッグは、その色も形もまるで甲羅の様に見えた。





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