瞼を閉じて、思い浮かべよ



by 2021.11.03.



 数週間前からだったろうか、それとも何か月も前からの事だったろうか、最初はごく微かな兆候だったのでよく覚えていない。だが今は明らかに認識できる。朝、目を覚ました後再びまぶたを閉じると、それが床に寝そべっているのが見えるのだ、部屋の窓の下の所に。日が照って明るい時はオレンジ色の光の中に、雨が降って暗い時は紺色の光の中に、ぼんやりした輪郭だが、背中をこちらに向けてそれは横たわっている。もっとはっきり見ようと目を開けると、その姿は消える。その後でもう一度確認しようとしてまぶたを閉じても、いつも再確認できるわけではない、というより2度目にまぶたを閉じても、次には現れない事が殆どだ。だから、それが何なのか観察しようと思った時は、横になってまぶたを閉じたまま眼球を動かした。それは生き物のようでもあり、そうでない物のようでもあった。こちら側に向いているのが背中だという事が何故わかったのか、それも明確に説明は出来ない。夢の中で何度か会った事があるような気もするが、それも記憶は曖昧だ。

 1週間前、私は新たな試みをした。まぶたを閉じたまま寝床から這い出して窓の下に近づき、それに触ったのだ。最初は境目がはっきりしなくて、雲に触ったような感覚だった。いや、実際に雲に触ったことがあるわけではないので、そう思ったと云うのが正しい表現かも知れない。しかし何度か手をかざしているうちに、段々と境界が分かるようになった。とは言っても、その感触が鮮明になったわけではない。硬いのか柔らかいのか、温かいのか冷たいのか、角ばっているのか丸いのか、それは分からないままだ。それでも、手を回す事が出来た。2日目には体を載せる事もできた。そして、目を開けるとそれは消えて、支えを失った体は床に落ちた。
 さらに一昨日、驚くことが起こった。背中から手をまわして、それを抱え込むように体を寄せた時、その背中から小さな突起が出て来てじわじわと大きくなり動き始めたのだ。大きくなったその突起は形を変え、空中を漕いだ。そして少しずつ壁に向かって進んで行った。私の手が半分壁の中に隠れた時、私は思わずその手を引き目を開けた。目の直前に壁が見えた、つまり、私の体は確かに壁に向かって移動していた。
 昨日は一日中、前の日の出来事を反芻していた。私を載せてあれが動く振動を、私の体が空に浮かぶ感覚を思い起こし、それが現実に起こった事なのか錯覚なのか見極めようと試みた。私の手が壁に吸い込まれたあの瞬間、私の手は何を感じたか思い出そうとした。だが結論は出なかった。

 今日、私は決めた。あれに乗って目をつぶったまま、それが動くままに身を任せようと。
 外は強い雨の音がする。今日、それは薄い紺色だ。私は手と足をそれに絡めて力を込めた。先日の様に突起が現れ徐々に大きくなった。大きく広がった物が翼であることが今日ははっきり分かった。その翼は大きく羽ばたき、私は浮かび上がった、そして壁に突進した。私は壁を突き抜けて高く舞い上がった。だが不思議な事に風は感じない。浮かんだ感じはしても体の周りの気配は同じくあいまいで、遠くの景色は朦朧としている。下を見てみようと目を開きそうになった瞬間、それが消えて床に落ちた時の事を思い出し、あわてて瞼に力を込めた。
 その時私は思い出した、なぜ今まで思い出さなかったのだろう。まぶたを閉じて翼を思い浮かべよと私にささやいたシウォンの声を、なぜ忘れていたのだろう。あれはシウォンが「改心の部屋」へ連れていかれた日の事だ、1日1度の食事が届け入れられる夕暮れ前の事だ、空腹の中でまどろんでいた私の耳元でシウォンの声が聞こえたのだ。「改心の部屋」で何が起こっているのか誰も知らない、誰も教えてくれない。そこへ行って戻った者は居ない。だがあの日、シウォンは私の所に戻って来てささやいた。姿は見えなかった、けれどその声を聞きたがえるはずがない。今まで思い出さなかったのは、その事を信じたくなかったせいだろうか。シウォンを思い出すのが辛かったせいだろうか。
 だが、今私はシウォンの声を思い出した。私は再び自由になれる。このまま2度と瞼を開けず、閉じたままでいれば、永遠にあの部屋へ戻らなくて良いのだ。永遠に。




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