Klinikwagen



by 2021.07.17.



 年に1回医療従事者に義務付けられている健康診断の通知がなぜか今年は早く来た。自分が診察を受ける時は、近くの友人の医院を利用していたのだが、先月から彼の医院が休診になっているので、この際、巷で噂のKlinikwagenを利用する事にした。競合者のお手並みを拝見という意味もある。医師会はこの「移動コンビニ診療システム」導入には大反対だったが、マスコミでもSNSでも反対運動は全く盛り上がらず、いつの間にか法案が通っていた。
 Klinikwagenの診察依頼はインターネットで申し込む。会員登録には名前と住所、連絡方法を入力するだけ、実に簡単である。本人確認をどうするのかと思ったら、診察時に国民ナンバーカードで認証するシステムらしい。ちょっと驚いたのは、診察場所、つまり診療車との待ち合わせ場所は自由に選択できるという事だ。ネット診療解禁の件で騒いだのがこの間のような気がするが、ついにここまで来たのか。固定診療所の受診者が激減しているのもうなずける、自宅の庭に呼ぶ事も出来るのだから。しかし、さすがに自分の医院の前に診療車を横付けするのは具合が悪い、近くの公園のバス停で待つ事にした。
 待ち合わせ時間にやって来たのは、ごく普通の無人運転ワンボックスカーだった。スマホに通知が来なければ気づかなかったかも知れない。近づくと、助手席側のドアにタッチパネルが表示され、そこに会員IDと予約時の暗証番号を入力すると、ドアが開き昇降用の階段と手すりがゆっくり降りて来た。階段に足を乗せると、「手すりをしっかりお持ちください」という音声案内があり、階段が静かに上昇、後ろで音もなくドアが閉まった。
 正面のディスプレイから若い女性の声で質問され、名前、年齢、生年月日を答える。恐らくこの間に身長、体重、体温、呼吸数、脈拍数、歩行機能、麻痺の有無などの基本状態が記録されているはずである。次いで、「こちらに向かって口を開けてください」という依頼、複数のカメラで口腔、咽頭、舌の状態が記録されるのだろう。
 「体の診察を行います、右の診察着に着替えてください。ボタンなどの固い物や金属が付いて無ければ、下着はそのままでもかまいません」という指示が流れる。ほぼ着替え終わったタイミングで「着替えが終わったら、後ろの椅子にお座りください」という指示。後方の部屋の中央にあるリクライニングの椅子に体を横たえると、手足、腰、腹、胸に、恐らく種々のセンサーを満載しているであろうプローブがせり上がって来た。どんな素材か知らないが、非常にソフトであり、圧迫感はない。むしろ全身を羽毛に包まれたような心地良さである。落ち着いた気持ちで、現在の症状をAIに伝え、その後に返って来る質問に答えてゆく。接続された回線の向こうでAIが症状を解析し、各種プローブからのデータと合わせて診断を絞り込んでゆくのである。
 と、急に音声のトーンが変わった。「申し訳ありません。もう一度正面に向かって息を吐きだして下さい」さらに一呼吸おいて、「データが混乱しています。もう一度正面に向かって息を吐きだして下さい」同じ指示が3度目である。これが検査機器にとっての異常事態である事は医院の設備点検をする業者から聞いて知っている。呼気検査からどんな異常を検知したのだろうか。何か思い当たる事はないか、この数日を思いめぐらす。そうだ、昨晩、疲れが取れるから飲めと言って妻が勧めたドリンク、確か彼女が東南アジア旅行に行った際に購入して持って帰った物だった。東南アジア産のある飲料と、日本人がよく食べるある食材を同時に摂取すると、揮発物質のスペクトラムが重なり、某社の呼気センサーでは違法薬物反応が出る事があるという記事をネットニュースで読んだのを思い出した。
 さらに不吉な事件が頭をよぎった。これも数か月前のことだ。あるクリニックの医師が、呼気からの違法薬剤検出を指摘されてその場で逮捕され、誤反応の疑いが強かったものの、その証明ができず、起訴された事件が現実に起こっている。薬物反応に関する事件では、医者に対する処置は格段に厳しい。もしも、地域のクリニックの医師が逮捕・起訴されれば、それはもう再起困難なダメージになるだろう。
 気が付くと、車はスピードを落とし始めていて、やがてゆっくりと停止した。果たして何処に止まったのか、全身に冷や汗が流れ出た。
 しかし、ディスプレイから流れ出る声は、前にも増して軽快だった。「診察が終了しました、着換えてください。使用された診察着は、黄色のボックスにお入れください。お忘れ物の無いようにもう一度身の回りをご確認お願い致します。診察結果はのち程ご指定の住所に発送致します。本日はKlinikwagenをご利用いただき、ありがとうございました。」思い過ごしだったのだろうか、この数か月で呼気反応の解析法が改善された可能性はある、それとも単純に機械の気まぐれだったかも知れない。
 着替えて出口のドアに立った時、レシートが目の前に降りて来た。次回利用時のクーポンナンバーと、コマーシャルが印刷されていた。「あなたの能力を新たな環境で発揮してみませんか。Klinikwagen-ネット診療はあなたに安心の職場を提供いたします。ご来社を何時でもお待ちしています」
 そして、ドアが開いた。




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