愛しのスローメタボリズム



by 2021.06.20.



 私、最初はこの会社のエリート集団に選ばれたと思っていたわ。だってそうでしょ、最高会長秘書なんてめったに聞く役職じゃないわよ。秘書の中の秘書、と思うわよね。ところが、これってまるで人形の相手よ。まるで油の切れたロボット相手よ。確かにこのおじさんは最高会長らしいわ、でも話すのを聞いても全く分からない。声が小さくて聞きとりにくいの。それに音が低すぎて何を言ってるか分からない。録音して10倍速にして、やっと普通の声になるのよ。体の動きが全部10分の1なの。色々指示は出してくるわ、お茶を持って来いとか、お菓子を持って来いとか言うし。社長を呼べ、とか言う時もあるけど、どうせ言ってる事は最後まで録音して再生しないと分からないから社長も直ぐには来ない、秘書の私に確認して、返事はレコーダーに録音して最高会長さんには10分の1の速さで再生して聞かせるのよ。だから急ぐ必要のある指示は文書かメイルね。それさえも確認には10倍時間がかかる。なんせ時間がゆっくり流れるわけだから、取次ぎの仕事はのんびりしたものよ。まあ、面倒くさい仕事と言えば、昼間にカーテンを引いて暗くしたり、夜にライトをつけてずっと明るくしておく作業が5日ごとに繰り返される事ね。なぜって?24時間サイクルを240時間サイクルに変えて、最高会長さんの1日に合わせるためよ。もうひとつ面倒くさいのは、最高会長さんのお部屋の水を毎日特別注文する事かな。水道水やミネラルウォーターじゃダメなのよ。重水っていうのを混ぜるの、最高会長さんが口にする飲み物も食べ物も、全部この混合重水で料理するのよ。濃すぎてもいけないらしいからこの管理は大変なのよ。だから実際は私だけが管理するんじゃなくて、専門の係が他に10人近く居るのよ。そんな重大な事らしいわ。あ、これホントはあまり言いふらしちゃダメだって言われてたんだっけ。

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 ここに配属されて半年たって、最高会長さんとも少し親しくなったわ。彼ってけっこうかわいいところがあるのよ。メイルでのやり取りでね、絵文字いっぱい入れて来るの。それとね、古臭いダジャレを入れて来たりする事もあるわ。もう十年以上前のおじさんギャグよ、半分は無視するんだけどね、そしたら「面白くなかった?」って聞いてきたりするの、ねえ、かわいいでしょ。仕事と関係ない事も時々話したりするのよ。いつだったか、どうして自分の体を変えようと思ったんですか、って聞いたことがあるわ。返事が来るのはいつも以上にかなり遅れた、「どうしてだろうね、試してみようと思ったのかな」という短い返事だった。
 半年の間に私もいろいろ情報仕入れたわよ、最高会長さんが会社を設立したのは彼がまだ学生の時で、時代の最先端を行く色んな方面の事業を立ち上げて成功して、「第二のマスク」と言われるほどになった、という処まではみんな知ってるでしょ。そして、長生きしてもっともっと色々な事をしたい、と思ったんじゃないかな。寿命を延ばすため、32歳の時にHMM-HA産生遺伝子というのを組み込んだ幹細胞を移植して、自分は最高会長の座についたのね。それから18年経って、会社は彼の思惑通りに発展を続けて、今に至る、というわけ。彼の年齢は暦の上では50歳だけど、18年前から体は10分の1しか歳を取ってないから、肉体的にはまだ34歳になってない働き盛り、というとこね。彼ってけっこうイケメンよ。女の人とのうわさ話は気になるでしょ、それもあちこちから聞き集めたわよ。一度結婚の話はあったんだって。彼もその人の事がまんざらじゃあ無かったらしいけど、女の人から断って来たらしい。その理由がね、「あなたの子供を8年間もお腹の中に入れて生活するのは無理です」という事だったって。そうよねえ、お腹の中で大きくなるのが10倍時間がかかったら、考えちゃうよね。

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 出勤したら、机の上にリボンを掛けた箱が置いてあった。開けてみたら、ダイヤのネックレスだった。箱の中に「誕生日おめでとう」というカードが入ってた。この部屋に入る事が出来て、こんな目立つ物を置いて怪しまれない人って、他に居ないじゃない。早速お礼のメイルしたら、「気に入ってもらえただろうか」っていう返事が来た。そしてもっと驚いたのは、「今夜、食事に招待して良いかな。」っていう誘いが来たこと。もちろん招待を受けたわ。
 勤務時間が終わって退社して、私の一番好きなピンクのドレスに着替えて、彼が手配してくれたタクシーを待った。車は会社のVIP専用駐車場に入って私を下ろした。駐車場の奥にドアがあって、その中から彼が教えてくれたドアを開けて、これも教えられてた番号のエレベーターに乗った。直通で彼のプライベートフロアに着くのよ。
 エレベーターの前で彼が待っててくれたのは感激よ。だって、普段の移動は車いすなのよ。歩く時は専用の杖が必要なの、歩みがゆっくり過ぎるから支えが無いと倒れちゃうの。この日は私が杖の代わりに彼を支えて、30分かけてテーブルの所に行って、彼を座らせた。
 食事は最高の料理だったわ。ただ困ったのは、彼のペースに合わせるとすごく時間がかかる事。でも、それもちゃんと考えてくれて、私の料理は彼よりも早く出すようにしてくれてた。私は出来るだけゆっくり食べるようにして、彼に合わせようとした。それでも私の方が何時間も前に食べ終わるでしょ、だから普段より飲みすぎたかもしれない。いつも以上にお喋りになって、いっぱいメイルしちゃった。テーブルの向こうで彼がその返事を打ってるのを見ながら、最初は座って返事を待ってたんだけど、とうとう彼の後ろに回って行って彼がゆっくりした動作で入力してるところを眺め始めた。肩越しに画面をのぞき込んでいたら、彼がゆっくり振り向いて、私の頬にキスして来たわ。私も彼の首に手をまわして彼の顔に近づいて、長い長いディープキス。そして、
 体が麻痺するかと思うほど、あんなに長い時間愛されたことは今までなかった。

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 翌月の彼の誕生日に、ネクタイを贈った。どんな色にしようか考えたけど結局ピンクのネクタイにしたわ。プレセント渡して、「今夜も食事ご一緒出来ますか?」っておねだりしちゃった。彼から「喜んでご招待します。」と返事が来た、たぶん彼も予想してたんじゃないかな。今度の食事も最高だった。そして食事の後、私の思いをメイルしたの、「お腹の中で8年かかっても、あなたの子供を育ててもいい。」ってね。
 8年間、重いお腹を抱えて生活する事を覚悟していたけれど、お腹の子供は普通に成長していった。そうよね、私の体の中には特別なヒアルロナンも重水も無いんだから。
 彼は、私と生まれる子供にも幹細胞移植をしてはどうかと勧めて来るんだけど、それは子供が生まれてから改めて考えるわ。私には考える時間はたっぷりある。子供が20歳になるまで待っても、彼にとっては2年にしか過ぎないんだもの。




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