接地の報答



by 2021.06.13.



 妻の行動が変化したのは、長女を出産した後からだ。確かにあの出産は普通ではなかった。予定日までまだ10日以上あって、山の空気を吸いたいと言い始めた妻を車に乗せて須賀山にドライブしたあの日。予報では一日中晴天のはずだったが、山頂の公園に着いて一休みしている間に急に雲が広がり風と雨が伴って来た。慌てて山道を下り、もう少しで国道に着くという手前でがけの上から落ちて来た土砂が道を塞いだ。山中で携帯の電波が届かなかったため、私が一人で国道まで降りて助けを呼んでくる事にして、妻を車に残して山道を下りた。後から考えれば、あの時妻を背負ってでも一緒に降りた方が良かったのだろうが、風と雨にさらすより車の中の方が安全だろうと考えたのは、その時の判断としては間違っていなかったと思う。国道に降りて、通りかかった車に救助を求め、救急車で再び山道を登ったのは夕暮れに近い時間だった。土砂崩れの現場に車は無かった。再度の崩落で車はがけ下に落ちていた。だが、妻はその前に車から出て最悪の事態を逃れていた。崩れ落ちた土砂の数メートル上、道のわきで雨に濡れて座っていた。へその緒がまだ付いたままの娘を抱いて。
 その時の事を1度だけ妻が語ったことがある。私が車を去った後、地鳴りの音を聞いてドアを開け車の外に立った時、彼女は車から離れるようにという声を感じたのだと言う。車から出た時彼女は素足だった。

 それ以来、妻の生活は一変した。あれほと外出やショッピングが好きだった彼女が、仕事もすべてリモートにして、殆どの時間を自宅で過ごすようになった。自宅の庭は小さなものだが、それいっぱいに畑と水田を作った。そして毎日そこで何かの作業をしていた、雨の日も嵐の日も、素足のままで。そんな変化に最初は戸惑ったが、私も両親が農家の出身で、小さなころには田舎の畑や田んぼを歩いたことがあるので、休みの日には彼女に付き合った。土や泥の感覚は徐々に思い出したが、彼女が言う「地面の声」は私には聞こえなかった。
 娘が立って歩くようになると、妻は娘も一緒に庭の田畑に入れて生活した。1日のほとんどの時間をそうやって過ごしていたのではないかと思う。時々買い物にも出ていたが、それ以外で私以外の人と接する機会は極めて少なく、次第に近所から奇異の目で見られるようになった。だが妻はそんな事は一向に気にしていなかった。ネット上では多数の友人と連絡を取っていたようだ。もともと得意だった英語に加えてスペイン語、ポルトガル語とフランス語を学習し、南米やアフリカの相手とチャットをこなしていたようだ。やがて娘もその会話に加わるようになっていった。

 娘の能力に気づいたのは、彼女が小学校に入る前の5歳の時だった。その日は休日で私も2人と一緒に家にいた。畑の中を歩いていた娘が急に立ち止まり足元を眺め、その後妻に向かって突進し抱きつき大声で泣きわめき始めた。「ここに居るのはいや、ここは怖い、早く行かなくちゃ」と繰り返した。娘の体を抱きとめたまま立っていた妻も、やがて鋭い顔つきに変わり私に向かって言った。「カオリの言う通りよ、ここは危ない、早く移動しなくちゃ。」何が起こるのかという私の問いには、まだ分からないが大変な事が起こる、と答え、泣き叫ぶ娘を私の腕の中に預けて外に出た。隣の家を訪れ、ここに居ては危ないから避難するようにと伝えている様子だった。恐らく近所じゅうの家を回ったのだろう、妻が戻って来たのは数時間の後だった、誰にも相手にされなかったであろう事はその表情から伺うことができた。だが、妻は休むこともなく家財道具を片付け始めた。私も促されて貴重品をまとめ、持ち出すべき思い出の品を箱に詰めた。その日のうちにトラックを手配して、兄がいる故郷の家に向かった。
 その夜、元居た街をマグニチュード8.5の地震が襲い、津波で多くの家が流された。私たちが住んでいた家も跡形もなく消えた。

 兄の家の近くに空き家を見つけ、そこを借りて新たな生活が始まった。以前の住居と違い、周囲は山や畑なので、妻も娘も家から出て活動する事が多くなった。当然、殆どの時間は素足で歩きまわり、以前より明らかに生き生きしていた。ネット上で世界とのチャットもさらに活動的になったようだった。
 カオリは6歳になって一度は小学校に行ったが、教室内に留まる事を嫌がり直ぐに外に出るため集団生活が難しく、やがてほとんど学校に通わなくなった。幸い校長先生以下、不登校に理解のある先生たちが居て、自宅学習と家庭訪問で代用できるように取り計らってくれた。その代り妻の役割は今まで以上に増えた。自分の仕事を減らして子供の教育に多くの時間を割いた。しかしむしろ、ネット上の方が日本の義務教育で学べない幅広い内容を学習する事が出来るわけで、語学に磨きをかけた娘は世界中の知識を吸収し始めた。いやいやながら教えられるのではなく自分から進んで学ぶせいだろうか、これが自分の子供とは信じがたい程の驚くべき速さで進歩していった。

 中学生になっても、娘は学校生活とは無縁の生活を続けていた。そして、中学2年になる年に、彼女は自分の力を生かしたいと言い始め、妻と私を説き伏せて日本を出た。数か月して、現地の人たちに混じって熱帯雨林の環境保護を訴えるカオリの姿が、時々日本のマスコミでも紹介されるようになった。ネットを介しての彼女からの便りは、しばしば滞りがちだったが、妻は娘と別の方法で通じているようだった。素足で家の前の畑に座り何時間も過ごす事があった。
 カオリの姿をTVで見て数日後、私は何か胸騒ぎがして早めに帰宅した。帰った時、妻は畑の中でうずくまったまま泣きじゃくっていた。あわてて近づいて抱き起し何があったのか聞くと、妻は「あの子が・・」と一言いって、また顔をうずめた。寄りかかって来た彼女の体重に押されて土に手をついた時、耐えきれない悲しみが私にも伝わって来た。
 現地のNGOから電話連絡が来たのは翌日だった。以前から環境保護団体に対して暴力的な妨害が加えられている事は知られており、最近の運動の高まりに伴い、さらに過激な集団が現地に集結していると伝えられていた。その集団から保護団体を警備するように世界各地から現地政府に要望が出されていたが、開発と経済成長に重きを置く現在の大統領はそれらの要望を無視した。そして事件は起こり、カオリはその犠牲となった。

 ほぼ1週間、妻は畑の中で過ごした。そこにテントを張り、私も仕事を休み妻と一緒に過ごした。まだ私には「地面からの声」は遠くにしか聞こえないのだが、これから起こることは、見えた。あの広範な森林伐採は止めなければならない。もしそれが失敗したら、開墾地の南端から発生し、殺虫剤に耐性となった飛蝗は、北進を続け北の大陸を食い尽くし、氷が解けた北極圏の半島を伝って世界中に広がっていくだろう。娘が命をかけて取り組んだ運動が、このまま消滅していくのを何もせずに見過ごす事は出来ない。申請したパスポートが手に入り次第、私たちはカオリの意思を引き継ぐため日本を発つ。たとえ、それが避けられない地球の推移だと分かっても、引き返す事は無い。恐らく、私たちはもうここに戻る事は無いだろう。  




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