天上へ



by 2021.05.04.



 登って行くに連れ、前を歩く鉄雄の姿が次第にはっきり見えるようになってきた。そして、少し強めの横風の後に雲は流れ去り、視界は一気に広がった。
 「父さん、山の峰が見えるよ。すごい、空ってこんなに青いのか!」鉄雄は空を見上げて叫んだ。
 「後ろも見てみろ。」私がそう言うと鉄雄は振り返り、そのまま動きを止めて、何も言わずに眼下に広がる雲海を眺め続けた。
 息子が富士山に登るのはこれが初めてだ。曇った空の下での生活しか知らない彼は、青空も雲海も今まで見たことが無い。その感激は理解できる。しばらく鉄雄にその景色を楽しませ、その間に自分も息を整えることにした。やがて鉄雄は周囲を見渡し、山を登っているのが自分たちだけではない事を再確認した。
 「もういいよ、父さん。景色は帰り道でもいっぱい見える。他の人に遅れないように行こうか。」背の荷物をもう一度整え、2人は再び登り始めた。

 やがて、赤く塗られた鳥居の前に着いた。そこには既に到着していた運び屋達が列を作って並んでいた。門番は、その荷物を確認し、その場で受け取るか、さらに奥へ運ぶよう指示するかを振り分けている。少しずつ順番が近づき、一つ前の男が門番の前に立った。男は背中の袋を下ろし、中の卵を取り出して言った。「これはクジャクの卵であります。滋養強壮間違い無い、とても貴重な品物でございます。」
 ああ、こいつはやってしまったな、と私はその男を後ろから眺めながら思った。それは暫く前に流されていたデマだ。クジャクの卵と偽って高く買い取ってもらったという出所の定かでない話が広がったことがあるが、まさかそれを本当に信じている者がいるとは。門番はスキャナーを取り出し、卵と、その男の顔をスキャンした。
 「お前、そんなウソがここで通用すると思ったのか。これは間違いなくニワトリの卵だ。これは没収する。それと、お前の顔は登録されたから以後この場所に来ることは許可されない。下に戻っても、お前には第2級の行動制限がかけられる事になるから承知しておくんだな。」
 かわいそうに、しかし馬鹿な奴だ。この場所はこの国の中枢であり、政治経済のすべてをコントロールしている場所なのだ。この国で最もセキュリティの高い場所なのだ。
 世界中が煤の混ざった分厚い雲に覆われてしまった後、特権を持った一部の者たちは光と清浄な空気を求めてこの山の頂上に居住地を作り、この場所から支配を続けた。富士山は活火山であると警告した者も居たが、富士山安全委員会の「総合的に判断し、危険とは断言できない」という答申を受け、建設が決定されたらしい。彼らの多くは、口先では温暖化対策を唱えながら、それは一部の科学者の妄信だ、と思っていたはずだ。温度が上がって水蒸気が増えれば、雲が地球を覆い、太陽の光が届かなくなって逆に寒くなるはずだ、とも言っていた。だが現実はどうだ。地球の温度は上がり続けている、シベリアや北極海ではメタンが溶け出て燃え続け、二酸化炭素を更に増やしている。もう人の力で元に戻す事は出来なくなってしまった。
 前の運び屋が、蒼ざめて喋る事も出来ないまま離れて行った後に、門番の前に立った。まずは卵の箱を取り出す、壊れないようにもみ殻の中に入れて運んで来たものだ。
 「先ほどの直ぐ後で恐縮ですが、私どもが持参しました正真正銘ニワトリの卵です。」
 門番は箱の中から2-3個を取り出しスキャンした。そして、卵を私の目の前に差し出して言った。
 「これは割れてるぞ、見てみろ。」どこにもヒビは見当たらなかった。私は答えた。
 「おっしゃる通りでございます、申し訳ございません。」
 一瞬、門番は笑いそうな顔を見せたが、すぐに元の顔に戻って言った。
 「今回は見逃してやろう。これは没収する。」
 やり取りを横で聞いていた鉄雄が、何か言いたそうに前に進もうとするのを、私は振り向いて目で制止した。そして彼が背負っているソーラーパネルと設置用アルミ機材を指さしながら門番に話しかけた。
 「これは、ナノセラのパネルです。工場から出荷されたまま、倉庫で保管されていた品物ですので、新品でございます。」ただし、ほとんど管理されなくなっている倉庫の状態までは説明する必要は無いだろう。太陽の光が地上に届かなくなって、ソーラーパネルの需要は急激に落ちた。今、その機能を発揮出来るのは高い山の上だけだ。そして、常に大出力の電気が必要なこの場所は、ソーラーパネルを大量に買ってくれる唯一の場所と言っても良いだろう。門番はパネルの製造番号をスキャンし、ディスプレイの表示を見て言った。
 「このパネルは管理部門で需要があるから運んでくれ。7番ゲートまで行って、もう一度そこで場所を確認しろ。」鉄雄と私の2人の顔をスキャンし、門番は入口を開けて通してくれた。
 しばらく階段を上った所で鉄雄が話しかけて来た。
 「何で、あんなことを許すのさ、苦労して持って来た卵じゃないか。あんなごまかしされるなら、地上で商売した方が良いじゃないか。」
 「それは来る前に話しただろ、多少の袖の下は覚悟の上だ。ここで発行されるサクラ・コインはな、下で通用しているナンバ・コインの何倍もの価値があるんだ。ナンバ・コインの様に暴落する事もない、確実な資産なのさ。」一つの国の中になぜ2種類の通貨があるのか、時々不思議に思う事もある。日常で使用される通貨の価値が度々上下するのも何故か分からない。中枢の支配権を確実に維持するため操作されていると言う者も居るが、いずれにせよ我々にはどうしようも無い事だ。

 何度かスキャンを受けながらいくつかの門をくぐり、7番ゲートに着いた。門番に、パネルを管理部門へ運ぶように言われて来た由を伝えたところ、彼は言った。
 「あー、このパネルは補佐官のお宅から依頼があるんだが、そちらに運んでくれんか。」
 「しかし、入り口では管理部門へ持って行くように言われたのですが・・出来ましたら、入り口の管理の方に確認していただけませんでしょうか。」
 7番ゲートの門番は私の方を睨みつけ、電話を操作し、机の前の画面に向かって話しかけた。「君も聞いていると思う例の35番案件だが、運搬人はパネルを管理部門へ持って行くと言っているが、君は本当にそう言ったのか?補佐官のお宅ではなく管理部門と。」画面の向こうから焦った声で、補佐官からもご依頼があったのですか、と返事するのが聞こえた。その後は小声の対話がしばらく続き、門番は電話を切って私に伝えた。
 「入り口の門番は、管理部門へ運ぶように伝えたかどうか記憶していないと言っている。たぶん言い間違えたんだろう。先ほど言った通り、補佐官のお宅に運んでくれ。場所が分からなければ、曲がり角の認証カメラに顔を近づけたら方向を指し示すから、それに従って行くようにしろ。」
 私たちは、分かりましたと答えて7番ゲートをくぐった。

 顔認証で道を確認しながら目的の家に着いた。この場所にはやや不似合いな西洋風の家だった。外見は華奢だがこの場所だから強風対策と耐寒設備も万全なのだろう、材料を下から運ぶにはかなりの費用が掛かったはずだ、それは誰が払ったのだろうか。そういえば、彼らは建て前は公務員だったな、と思い出す。呼び鈴を押すと、この家の主婦と思しき女性が出て来た。すでにゲートから連絡があったらしく、直ぐに庭に案内された。
 「あなた、パネルの設置できる?あの屋根の上に追加してほしいんだけど。」
 「はい、出来はしますが、今は道具を持っていませんので・・」と答えかけると、庭の一角に置かれた大きな箱を指さして彼女は言った。
 「道具はね、さっき管理部門から借りて、持って来てくれたのよ。じゃ、お願いしますね。」簡単な作業だと思っているらしい言い方だった。そして彼女はさっさと家の中に入ってしまった。今更断ることも出来ず、屋根に上ってパネル設置を開始した。設置後の強度を確認し、屋内配電の設定も済ませたのは、もうそろそろ日が落ちそうな時間だった。作業が終了したことを伝えて、料金の話を始めたところ、彼女は言った。
 「あ、そう。じゃ、あなたの電気技師免許証、拝見できるかしら?」まさか、それを要求されるとは思っていなかった。地上でのソーラーパネル新規設置が殆ど無くなって以来、免許証の更新はしていないのだ。その事情を説明したが彼女は納得しなかった。そればかりか、資格が無いまま工事をした事を非難し、もしも不具合が起こったら賠償請求するとも言った。私が、工事を始める前になぜ免許証の事を確認してくれなかったのかと問うと、それは確認したはずだと言い始めた。何度か押し問答をしていると、奥の部屋から家の主らしい男が出て来た、ずっと居たのか、今帰った所なのかは分からない。彼は妻の話を聞いたのち、私に向いて語った。彼が言うには、事情はどうあれ、私の行為は重大な法律違反である。だが、今回は起訴は見送り、現時点では家の設備に加えられた改変についても責任を問わない事にする。証拠の品は現状で保管する。不服があれば、しかるべき手続きを取るようにとも言われたが、その訴えが受理されるとは思えなかった。費用受け取りはあきらめ、その家を出た。玄関を出る前にも「何かあったら賠償してもらいますからね。」と念を押された。
 階段を下りながら、鉄雄が嗚咽を繰り返しているのが分かった。泣きそうになるのは私も同じだが、ここで泣いてしまっては、もっと嫌な事がこれから何度もあるこの仕事の厳しさを息子に伝えられなくなると思い、懸命にこらえた。

 入り口の門に近づいた時、突然、激しく地面が揺れた。その直後、轟音と共に山の上から赤い炎が飛び出し、煙と無数の石が舞い上がった。噴火は予兆なく起こる事もあると聞かされていたが、それが今なのか。階段の手すりにつかまって後ろを振り返ると、鉄雄が倒れていた。揺れ動く階段を必死で数段這い上がって鉄雄の体を抱き起こした。まだ息はしている、噴石に当たったらしい、どこをやられたんだ。
 私は無神論者だ。だが、この時私は心から神に祈った。
 「ふたりを地上に帰してください。こんな所で、こんな奴らと一緒に死ぬのは絶対に嫌です。神様!」




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