光合成パネル慕情



by 2021.05.04.



 「ただいま。」
布達凡平氏は玄関を開けた。苦労してやっと手に入れた一戸建て住宅である。通勤にはちょっと遠いが、だからこそ高層ビルに邪魔されずに太陽の光を受ける事が出来るし、なによりも肥えた土が魅力である。丹念に調べて選んだ甲斐があった。だが妻はそれでもしょっちゅう不満をこぼしている。夫の苦労を知らずに、と凡平氏はその妻の態度に少しずつ苛立ちを募らせつつあった。
 「おかえりー」少し前に帰っていた妻と、2人の子供が居間から返事した。
 「待てないから、食事始めちゃってるわよ。」と妻。
 まあ、いつもの事だ。と凡平氏は思って、マスクを取り、手洗いをし、着替えて居間に入った。妻と2人の子供たちが光合成パネルのチューブで食事中である。凡平氏は中央のコンソールから自分のチューブを引き出したが、先端が曲がっているのに気づいた。
 「おい、俺のチューブをどうした?」と聞くと、妻が答えた。
 「それね、子供たちがふざけ合ってる時に引っ張ってどっかにぶつけたらしいの。直せる?」
 「あ、ああ、会社にスペアのコンセントがあったはずだから、明日もらって来るよ。」
 妻が子供たちに言う。「あなたたち、お父さんにチューブを貸してあげなさい。」
 しかし、子供たちは「いやだよ、お父さんがなめると臭いんだもん。」と口をそろえて言った。
 「いいよ、いいよ、俺はアミノ酸と脂肪酸の補給で我慢するから。でも、今夜はグルコース補給なしかあ、きついなあ。」
 明日の朝、空腹で出勤する事を考えて憂鬱になったが、しかたない。凡平氏は、2段目のコンソールからソイルシートのチューブを引き出して口にくわえた。こちらの方は今日もしっかり吸収している。人工根にたくさんの根瘤菌が成長している証拠である。この土地を探し出せたのはラッキーだったと改めて思った。
 と、妻が話しかけて来た。
 「あなた、おとなりの壱角さんちね、新しい光合成パネルに買い替えたんだってよ。フニゴン社の最新型葉緑素モジュールだって、お隣の奥さん自慢たらたらよ。グルコース生産能力が15%も上がってるらしいのよ。」
 「隣の芝生は青く見えるもんだよ。一戸建ての家が持てるだけでも有難いと思えよ。会社の若いもんなんか大変だぞ。高層アパートの共同パネルで、グルコース供給量は俺たちの半分も無いんだぞ。その上、土地が無くて、ソイルシートはNGOの救済センターに頼っている者さえいるんだぜ。」

 かつては、国内で足りない大部分の食料は外国から買い集める事ができた。だが、あの大パンデミック以来状況は一変した。外国との移動が困難となり、尚且つ諸外国が自国の食料を確保するため輸出規制をかけるようになって、この国の食料は急速に枯渇した。国民が全員しばらく我慢して畑を耕し食料生産を増やすというアイデアも議論されたらしい。だが、それは出来なかった。この国の人たちは食物が成長するまで何か月も待つことが出来なくなっていたのであった。何よりも、土で食物を育てるというような悠長な仕事をする人たち、食物を育てる手間を厭わない人たちが、居なくなっていたのである。更に決定的なインパクトを与えたのは、この国で育てられていた食物のタネが外国の穀物メジャーから購入したもので、殆どが次世代では成長しないF1であった事だ。
 だが、地道な研究の成果が役立った。人工葉緑素でグルコースを産生する技術と、根瘤菌をバイオ技術で改変しミネラルの吸収だけでなく脂肪酸とアミノ酸を合成させる能力を持たせる技術が、この危機を救ったのである。光合成パネルには人工葉緑素が散布され、合成されたグルコースをチューブに収集する仕組みが開発された。同様に根瘤菌を培養した人工根からミネラル、脂肪酸、アミノ酸を回収するのである。その日の収穫がその日の栄養となるわけだ。ただし、口から食べる事に皆が全く無関心というわけではない。たまに公的な送り状で果物や魚が届くことがある。しかしそれが、何処から、どんな基準で送られてくるのかは分からず、どうやら公平に分配されているのでは無いらしいと皆が気付き始め、その話題を互いに話し合う事は無くなった。

 食事の後、シャワーで汗を流して部屋に戻った凡平氏を迎えた妻は、不機嫌な様子で後ろに持っていたカバンを彼の方に出して、言った。
 「あなた、これは何よ。」彼女が差し出したカバンの中には光合成パネルとソイルシートがセットになった、通称「ソライル」が顔を出していた。1人または2人が屋外で使用できるポータブルキットである。いつもは会社に置いているのだが、今夜残った書類を確認するために持って帰るつもりだったカバンと間違えたようだ。
 「それは、おまえ、接待用だよ。ゴルフ旅行とかの時に使うためにさ。」
 「香水の匂いがする。」妻は厳しい顔をして言った。
 「そりゃ、その、キャディーさんが持ってくれたりする事もあるしな、その時に匂いが付いたのさ。」
まだ疑った目で見ている妻に、こう言う。「先月も部長と一緒にゴルフに行って、お土産の魚も貰って帰っただろう。なんなら、部長に聞いてみるか?」凡平氏は、妻の性格から彼女がそこまでするつもりが無い事を知っていた。
 「変な勘繰りするなよ。」そう言ってソイルシートに水をまくために外に出た。玄関の戸を閉め、シートに水をまきながらスマホを取り出し、Lineを開いた。そして「秘書課第二部」あてにメッセージを送った。
 「ごめん、今度の土日は行けなくなった。」
 そして、既読のサインが出た後メッセージを消した。
 しばらく控えた方が良いかも知れないな、と思った。しかし2人だけで一夜を過ごし、真夜中に、本来は一般人には禁止されている釣りをしたり、森に忍び込んで木の実を取ったり、スリルを共有するのをやめるつもりは無かった。その獲物を持って帰れば、妻や子供たちも喜んでいたではないか。だが香水の事はうかつだった、と凡平氏は思った。今度からは強い匂いの香水は控えるように、彼に言わねばならないだろう。





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