入れ香



by 2021.04.05.



 億単位の業務上横領の罪で起訴され、横領の事実を認めながら、それ以外の事は終始黙秘を続け動機も経緯も何一つ語らなかったこの女性に興味を持ちコンタクトを取り続けた。そして、ついに彼女からそれを聞き取る同意を得ることに成功した。なぜ彼女が同意したのかは分からない。彼女からの条件は、他の同伴者が居ない事、録音も記録もしない事だった。今、彼女が収監されている施設で、それが許可されたことも私には驚きだったが、ともあれ私は話を聞きに行った。
 普段は娯楽室として使用されるのだろうか、片端の壁にバスケットボールのネットが取り付けられているガランとした部屋にスチールデスクが並べられて、それをはさんで椅子が2つ置かれていた。彼女は先に来て座っていた。
 私が反対側の椅子に座ると、話しかけて来た。
 「本当に私の話を聞きたいのね?後で後悔する事になっても。」
 その言葉は今までも何度も繰り返して聞いている。私は「もちろんよ。」と答えた。

 彼女は話し始めた。

 私は春樹のお父さんが経営する製薬会社に就職したわ。私と春樹は同じ大学の同じ学部で学んで、同じ分子工学を勉強していた。会社は最初はそんなに大きなものではなかったけれど、私と春樹が共同で企画したサプリメントがヒットして急成長した。彼のお父さんも私の企画力を高く評価してくれた・・と思ってる。何度も彼の家に行って、ご両親と一緒に何度も食事した。学生のころから私は春樹に好意をもっていた、彼も私の事を想ってくれていると思ってた。春樹の気持ちを確かめたわけではないけれど、一緒に会社のプロジェクトに取り組み、一緒に苦労してそれを成功させ、会社を大きくして、本当に一心同体のように働いて来て、私と春樹が一緒に生活するようになるのは当然の流れだと思っていた。自分の事だけしか見ていなかったのね、2年後輩の香織が彼にとってそんなに特別な存在だと気が付かなかった。後から考えてみれば、春樹の香織への接し方は確かに特別だった、私は自分を過信してそれに気が付かなかった、気が付かないふりをしていたのかも知れない。春樹と一緒になる、というのが自分の独りよがりな妄想だったと気づかされた時、私は感情を失った。それを他人に気づかれないように振る舞ったわ。誰かが面白いことを言った時は笑ったし、他の人が泣いている時は私も泣いた、けれど楽しくも悲しくもない、ただ笑って、泣いて、その仕草をするだけ。笑い顔をすれば楽しくなるって心理学者は言ってるけどウソよ、あれは本当に感情を失った人間を知らない者が言うセリフ。
 でも、私も諦めたわけじゃない。春樹が香織を避けるようになれば、嫌いになれば、私の事を思ってくれるようになるかもしれない。そう考えて方法を捜した。香織が入れ香をしようと思っていると知ったのはそんな時だった。私の春樹への気持ちを知らない香織は、私にも相談して来たのよ、この機会を利用しない手は無いと小躍りしたわ。一緒に考えるふりをして時間を稼いだ。香織には私の友達が経営しているエステサロンを紹介した、最初は普通のアロマオイルから初めて、時間をかけて色々試してみるように勧めた。その間に最も肝心な計画を同時進行させるためにね。
 春樹のお母さんにも別のエステサロンを勧めた。そこに私の研究所の部下を送り込んで、美容療法の一つと言ってお母さんの体を洗浄マッサージする時に一部のアポクリン腺を採取させた。その細胞のHLAを香織のHLAに組み替えて培養して増やした。一緒に採取された細菌と真菌も培養同定した。何をしたか、もう分かるよね。香織が最後の入れ香をする時に、この細胞を注入して、培養した菌を付着させたのよ。これで香織は春樹のお母さんの体臭を獲得したというわけ。

 「ちょっと待って。」と、私は彼女の話を遮った。
 「HLA遺伝子をどうやって組み替えたんだって?」
 彼女は少し唇をゆがめて間を置き、答えた。「気になるのは、そこ?でも、それは私にはどうでも良い事なのよ。最後に教えてあげるから、続きを話していいかな。」そして、続けた。

 男は母親の匂いには恋愛感情を抱かないっていう研究知ってる?ああ、さっきは私、心理学なんて信じないって言ったくせに、矛盾してるわよね。でも、私のした事が矛盾だらけなんだから、いいでしょ。
 香織に入れ香をして、2人の行動を観察した。でも春樹の香織に対する対応が変わった様には見えなかった。ある日、香織と2人で話す機会があってね、それとなく2人の関係を聞いてみたわ。彼女は言った「春樹さんたら、私がお母さんのような匂いがするって言うのよ。」ってね。私の作戦は成功したと一瞬思った。でも彼女が続けた言葉でそれは失敗だったと悟った。こう言ったの「あのね、春樹さんてマザコンだったの。」今まで私がやってきたことは無駄だったのかと落胆したわ。友達に無理を頼んで場所を確保したり、かなり無茶な事を強行したり、会社のプロジェクトと違う実験のために海外から試薬を注文したり、お金も随分使った。今まで貯めていた貯金では足らなくなって、とうとう会社のお金にも手を出してしまった。でも、春樹と一緒になる事が出来れば、身内の中で処理できると思い込んでた。だから、そこであきらめるわけにはいかなかった。
 春樹がマザコンだと知った香織は、ひょっとしたら春樹に対する愛情を失なって行ってるのかも知れない、そんな期待を持ったの、幻想というべきかも知れないけどね。それならもう一つの手がある。今度は春樹の方に入れ香をするの、香織の父親の体臭をね。これも聞いたことがあるでしょ、発情期のメスは父親の匂いを避ける、という動物実験。香織のお父さんは堅物な銀行マンよ、その細胞をどうやって手に入れるかは少し苦心したわ。毎年1回の健康診断の時を狙った。診療所のドクターを買収して、皮膚の異常があるから生検する必要がある、というストーリーを捏造して細胞を手に入れた。ドクターとナースにはかなり支払ったわね。足元見られて吹っ掛けられたし。同じやり方でHLA遺伝子を入れ替えて細胞を増やして、常在細菌も培養して、次にこれを春樹に注入するのも何処でどうするか、これも特別な場面設定が必要だったわ。春樹が通っているジムに、私が偶然友達を迎えに行ったという事にして、トレーニングした後の飲み物にちょっと細工させてもらった。フラフラして調子が悪いと言い始めた春樹を、例の診療所に連れて行って夕方まで休ませた。眠っている間に香織のお父さんの細胞を入れた。
 その後どうなったかって。あなたも分かっている通り、何も変わらなかったわ。なぜ変わらなかったか、これは私の推測なんだけど、香織はファザコンなのよ。推測だけど間違いないと思う。私は、色々な細工に必要な資金を手に入れるため会社のお金に手を付けて犯罪者になって、結局、春樹と香織をお互い更に好きになるようにしてやったわけ。これが、私のやった事。
 もう一つ、さっきあなたが聞きたいと言ってたのは、遺伝子の組み込みの事だったっけ。あなた科学にも興味があるの?まあ、いいわ、教えてあげる。必死で研究しているうちに、パンドラウィルスから酵素を見つけたのよ。CRISPR-Cas9っていう酵素システムは聞いたことがあるでしょ、あれは特定の遺伝子を簡単に入れ替える事が出来る仕組みね。わたしが見つけたのは、特定の機能集団をまとめて入れ替える事が出来るシステムなのよ。名前なんかない、だって私が見つけて、2度使っただけの物だもの、名前なんか付けてない。

 私は、彼女が話した夢のような遺伝子組み換え術の方に興味をひかれた。
 「それ、すごい技術じゃない。それができれば健康な人の細胞を病気の人のHLAに変換して注入するだけで治療ができる、拒絶反応無しにね。移植適合ドナーを苦労して探し出す必要も無くなる、ノーベル賞レベルの発見よ。なぜそれを発表しないの。あなたの会社にだって、すごい貢献をすることになるじゃない。」
 しかし、彼女は冷めた目で私を見ながら言った。
 「そんな事、私は興味がない。」
 「研究のデータは何処にしまっているの?」私は少し興奮して聞いた。彼女は答えた。
 「残念ね、データは全部捨てた。ウィルスも酵素も。それだけじゃない、私がした事は出来るだけ消した、横領の証拠だけは消せなかったけどね。研究所の研究員が2人交通事故で死んだのは調べてあるよね。それと、これも教えてあげる。駅前のクリニックが廃院になったでしょ。あれは、クリニックのドクターとナースが旅行中のラスベガスで行方不明になったからよ。」
 そして、少し私の方に身を乗り出して続けた。
 「言ったでしょ。あなたはこの話を公表しない方が良い。私のために、そしてあなたのためにもね。」
 彼女の視線が、威圧するように変化したのを私は感じ取った。その私の動揺を読み取ったかのように、彼女は続けた。
 「あなたは、私と同じ匂いがするのよ。あなたと話しても良いと思ったのは、そのせい。私には分かる、あなたは、重大な事を隠しているってことがね。私がしたのと同じくらいの・・、そうでしょ。」





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