菌断の迷路



by 2021.02.09.



 私の仕事ですか?そう、Infection Control Conciergeと言っても、あまり馴染みのない言葉かもしれませんねえ。手術前の患者さまの感染をコントロールするお手伝いを致します。おっと、もっと判りにくくなってしまいましたか。それじゃあ、少し解説を加えてお話し致しましょう。
 ご承知のように、今では抗生物質が効かない耐性菌が世の中に蔓延してしまいました。ほんのちょっとした傷からの感染が、命取りになることもしばしばです。ましてや、手術となると、その危険性は格段に増加します。確かに、治療法の進歩で、昔なら手術しか方法が無かった病気でも、薬や超音波で治療することが可能になってきました。けれども、どうしても手術しないと治せない病気は存在します。怪我などの救急治療ではなく、しばらく余裕のある状態でしたら、体の耐性菌を出来るだけ減らしてから手術すると言う対策を取る事が出来ます。そのお手伝いをするのが私たちの仕事なのです。
 もっと具体的に説明いたしましょう。手術の日程が決まった患者さまは、私たちが働いております、この「Bonne Chance術前ホテル」にご宿泊いただきます。ほぼ2週間のご滞在の間に、体に定着している耐性菌を出来るだけ減らすため、施設で培養した感受性菌による菌希釈を行います。感受性菌入浴、感受性菌ミスト吸入、感受性菌入り飲料水・飲食物による食事、感受性菌培養液による浣腸、などです。同様の機能を持った他のホテルでは、耐性菌の数を凡そ千分の1にすることを目標にしておりますが、私どものホテルでは、その10分の1、つまり1万分の1に減らせるシステムを取っております。え、どのような菌を使うのかですか?申し訳ございませんがそれは企業秘密ですので、お答えできない事になっております、ご了承ください。

 さて、依頼されてた「お仕事インタビュー」へのビデオは、こんなもので良いか。そろそろ本来の仕事に戻って各部屋の入浴の準備をしなければ。
 防護服の中に入り、本部から送られて来た入浴用の感受性菌混合液を給水塔に注入する準備を始める。クライアント毎にそれぞれ内容が異なるので、バーコードで確認しながらの作業だ。患者さん毎に初診時の耐性菌分布が解析され、最適な菌希釈が可能になるよう入浴槽に注入する菌種が調整されているのだ。作業はほぼ自動で行われるが、人が介在しているという宣伝は、今でもクライアントから好意的に受け取られるのである。
 307号室に来た。かなり緊張しているのが自分で分かり、一人で苦笑する。本来、クライアントに対して特別な感情を持つことは好ましいことではないし、今までそのようなことは無かった。だが、今回は自分の感情が抑え切れないようである。ずっと昔に分かれて、忘れていたはずだと思っていた女性の昔の姿に正に瓜二つの、この部屋の女性。昔の彼女とは比べようもない恵まれた人生を送っており、こんな仕事をしていなければ恐らく全く接触する機会も無いはずの女性である。どんな病気で手術をするのか、カルテを詳しく見れば判るのだが、今回は敢えて詳細を知ろうと考えない事にしている。耐性菌暴露に関する既往、抗菌剤内服の既往、現在の症状、それ以上知っても仕事の内容が変わるわけではない。
 隣の部屋で作業している音が聞こえたのだろうか、壁をノックして来た。少々驚いた、今彼女は浴槽の中に入っているはずである。壁に耳を当てていると、彼女の方から声をかけて来た。
「小師原さん、でしたかしら。そこにいらっしゃるの。」
顔を当てて喋っているようだ。個室の周りは防音処理されているはずだが、一部に不完全な場所があったらしい。だが、この場面で返事をしてはいけないと言うマニュアルの記載は無いはずだ。
「はい、左様です。音がうるさかったでしょうか、申し訳ありません。」こちらもヘルメットを壁に当てて返事する。
「いいえ、そんな事はありませんのよ。ずっと部屋の中でしょう、誰かがそばに居ると思うと、嬉しくて話しかけたくなったの。」
それぞれの部屋には面会ブースが設置されており、そこで面会者と会話する事は可能なのだが、確かに彼女の場合、隔離開始のあと面会に訪れた者は誰も居なかった。
「もうしばらくのご辛抱です、1週間たてばここから出られますよ。」
「でも、その後すぐ手術でしょ。今度は病院に閉じ込められるのよ。」
「手術が終われば、その後はそれこそ自由の身です。そんなに長くはかかりません。」
しばらく間をおいて彼女は言った。
「実はね、あまり待てない事があるの。途中で外出する方法があるって最初に教えていただきましたわよね。どうしたら出来るのかしら。」
どうやらプロテクション・スーツでの緊急外出を提案しているようだ。だが、それを申請するには本人の正式な依頼と同意書、場合によっては連帯保証人の同意も必要となる。そのためには正式なプロセスを経た手続きが必要だ、防音装置に欠陥のある壁越しでの口約束で決められるような事象ではない。
「分かりました、その事は公式な手続きが必要ですので、後でご相談に伺いましょう。3時間後でよろしいでしょうか。」

 3時間後、彼女の部屋の面会ブースに行った。フロントからのテレビ通話でも手続き可能なのだが、第三者にモニターされる可能性があるその方法は避けた。彼女の言い方に微妙な葛藤が存在する雰囲気を感じたせいである。入り口のドアを閉め、分厚いアクリルガラスで仕切られた面会室のテーブルの上に360度記録カメラを置いた。
「それでは、緊急外出のご依頼を記録に残すため、これからの会話は録画させていただきます。」そう言ってスイッチを入れた。
 彼女の希望は、2日後に海外に発ち数年間帰らない予定の知人に会うため、明日数時間の外出をしたいという事であった。場所は駅前のホテル、移動は公共の交通手段ではなくタクシーを使うという。相互に確認したい品々があるためここの面会室では具合が悪いということらしい。連帯保証人へはすでに彼女から通知しているという事であり、その言葉も録音して、最後に彼女自身の認証確認を行った。虹彩のアップと上半身のショット。他人には分からないがこの表情のどこかに本人を同定するサインが表示されている。
「手続きは完了いたしました。明朝9時に更衣室でプロテクション・スーツ装着を開始します。注意事項のビデオを先ほどお部屋の方にお送りしていますので、必ずご覧になって確認事項のテストにお答えください。簡単なテストですが、間違いが多いとスーツ使用の許可が取り消されますのでご注意ください。それでは、明日の朝お伺いいたします。」
「ありがとう。小師原さんは今日のお仕事はもう終わり?」
「そうですね、このあとプロテクション・スーツの点検と確認が残っています。」
「ごめんなさいね、別のお仕事を作ってしまって。私は早めに休むことにしますわ。あ、その前にもう一度シャワー浴びてからね。」そう言いながら彼女は私の目を見つめた。
 30分後、防護服を着て、防音装置に不備があるその場所に座った。ノックが聞こえた。予想していた通り、彼女から重大な提案がなされた。
 明日会いに行く友人というのは名目で、実際にホテルで会うのは家族から反対されている恋人なのだ。その恋人が海外に出て行くのは事実で、帰国するのが何時になるかは分からない。さらに彼女にとって気がかりなのは、その恋人には別の相手がいるらしく彼女は自分に対する気持ちを測りかねている。もしも恋人の気持ちが本当に自分に向いているのなら、最後になるかもしれない再会の場で直接相手に触っておきたい、という内容だった。
「ご存じでしょうが、プロテクション・スーツは通常の刃物や針は通しません。切り裂くことは不可能です。」
「分かっています。でも、緊急事態の時の解除パスワードがあるって聞きました。」
そこまで知っているとは驚いた。だが、パスワード入力用のテンキーボードは普通の人には探し出せないように偽装されている。その私の考えを予測していたように彼女は言った。
「明日会う人は、以前に救急隊員でした。パスワードの入力方法は知ってます。」
「ですが、プロテクション・スーツから外に出ると、今までの耐性菌対策は全く無駄になってしまいますよ。手術も出来なくなります。」
「分かっています。」
「それなら、ここから退所された方が動きやすくなるんじゃないですか。」
彼女の身勝手な提案にさすがに苛立って声を荒立ててしまった。
「ごめんなさい、手術を受ける準備はしなくちゃならなかったの・・それが条件だったのよ・・」
壁の向こうの声はすすり泣きに変わって、しばらく続いた。
 ここに来るまでに、もう一度彼女のカルテを見直している。手術担当科は産婦人科、今回が何度目かになる卵子凍結作業の後、開腹手術が追加されていた。どのような事情による手術かは分からない、だが、今回が延期になっても、もう一度やり直す事は十分可能な手術だ。既に私は彼女の依頼を受け入れる気持ちになっていた。耐性菌希釈が成功しなかった理由を上層部から詰問される可能性はあるが、それはしばしば起こり得る事態だと言って切り抜けられるだろう。
 今度はこちらから壁をノックした。
「あなたの覚悟が分かりました、パスワードをお教えします。」そして5ケタの数字を伝えた。
「救急隊用のユニバーサルコードは定期的に頻回に変更されます。恐らくあなたがお会いになる方はアクティブなパスワードをご存じないはずです。つまり、スーツを解除するかどうかはあなた次第という事です。」
「ありがとう、あなたのご厚意に本当に感謝します。」彼女の声は本当に嬉しそうだった。それを感じたせいもあるだろうか、ヘルメットを壁から離す前にこう伝えた。
「私の立場上言わせてください。私は、あなたがプロテクション・スーツを解除しないままお帰りになるのを期待してお待ちしています。」そしてそこから離れた。

 翌朝、9時前に彼女は更衣室で待っていた。隔離室からプロテクション・スーツにもぐりこみシールドを終えると、恐らくお気に入りのドレスに身を包み、今日は私に会釈もせず出て行って、1階のロビー出口で待っていたタクシーに乗り込んだ。

 午後の記録を終え、他の入所室の耐性菌核酸試験ボトルの点検に回っていた時、隣のフロアの同僚が慌ててやってきた。
「さっきから君に緊急連絡が入っているぞ、気が付かなかったか。」
急いで事務所に戻り、電話に出た。救急車の隊員からだった。プロテクション・スーツのIDと、搬送している患者の名前の確認を求められた、彼女の名前だった。
「患者さんは、30分前の交通事故で緊急手術が必要です。あなたのセンターの記録によれば、この患者さんは既に1週間以上の耐性菌希釈を経過しているという事になっています、間違いありませんか。」
「そうです。」
「それでは、耐性菌レベル0.01と判断しますので、感受性菌病棟の緊急手術室へ搬送します。ご確認いただけますか。」
「現在の患者さんの状態を教えてください。」外傷がなければ全身の皮膚を再消毒する事で乗り切れるかもしれない、そう思って聞いたが、その期待は裏切られた。
「プロテクション・スーツの上から消毒後、無菌テント内で患者をスーツから解放しました。意識はありません。左上腕骨開放骨折、腹部にも裂傷と打撲傷あり、血圧低下しており左ソケイ部から補液を開始しています。」
 その後の返事をするまでにどれだけかかったか自覚していない、随分長く推敲した気もするし一瞬で決断した気もする。いずれにせよ私は救急隊にこう伝えた。
「患者さんは耐性菌が残存している可能性が高いと考えます。耐性菌病棟へ搬送してください。詳しい既往ははのちほどご連絡いたします。」
 彼女がプロテクトを解除したかどうかは分からない。もし解除していないままだとすれば、私は、感受性菌による耐性菌希釈がほぼ完了し抗生物質が有効であるはずの彼女を、耐性菌に汚染された危険な病棟に送り込んでしまったことになる。術後に耐性菌感染を生じ彼女を危うくするかもしれない。だが、もし彼女がプロテクション・スーツを脱いでいれば、耐性菌はすでに傷口から彼女の体内に侵入しており抗生物質治療が効かない可能性が高い。何よりも、その状態で感受性菌病棟に搬送すると、病棟のすべての患者とスタッフを耐性菌の危険にさらす事になってしまう。私の選択は正しい、過去の淡い思い出に惑わされてはいけないのだ。
 私はもう一度、自分の判断は正しいと小声でつぶやき、報告書を作成するため自分のオフィスへ向かった。




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