伝樹



by 2021.01.07.



 おじいちゃんは、もう山越えは体が付いて行かなくなってきた。5年ほど前までは、僕を背負って登ってくれたのに、今では僕の後から息を切らしてやっとついて来てる。そして、今年の山越えは特別な事があるかもしれないとおじいちゃんは言った。出発の時から、いつもの年とは様子が違った。いつもと同じお祈りの場所へ行くのに、僕の荷物は普段の2倍近くあって、全部自分で担いで行くようにおじいちゃんは言った。
 山道の途中で休んで息を整える間、おじいちゃんは何度も僕に繰り返して話した、必ず覚えておくようにと言いながら。今年はお祈りの場所は厳しく制限されるようになった。山を越える前に、僕とおじいちゃんは分かれて峠を越え、別になって山を下りる。お祈りの場所で会ってもお互いに知らないふりをする。そして翌朝の8時になったら、会えなくても一人で峠を越えて帰る。毎年通った道だけど、今まで一人だけで歩いたことは無い。一人で帰る事が出来るかちょっと心配だったけど、おじいちゃんの厳しい顔を見たら、そうなった時はそうしないといけないのだと決心した。
 峠の手前で、おじいちゃんは路端の岩に腰掛け、これから先はこの峠を超えて戻ってくるまでお互いに知らない人になるのだと念を押した。そして、谷の方を向いたまま僕に言った。決して後ろを振り返らずに先に行くようにと。
 峠を越えた頃から、空には雲がかかるようになり風が強くなった。いつもより重い荷物を背負っているので、足元の石ころを踏んで転ばないように気を付けながら坂道を降りて行った。峠のふもとに着いた頃には、雨混じりの風で時々体が飛ばされそうになることがあった。おじいちゃんはいつも天気予報を何度も確認しながら峠越えの日を決めていたのに、今年は予想が外れたんだろうか。
 やがて、フィカスの木に至る見慣れた大通りに入った。この天気のせいか、いつもより人通りは少なかったけれど、それでも通りの両側の店は殆どが開いていて、お客もちらほら入っていた。車でやって来て急いで土産屋に入る者や、派手な傘をさしている者は観光客だろう。それらの間で雨に濡れながら歩いているのは僕と同じようにお祈りに来た人たちかも知れない。フィカスの木に近づいて、おどろいた。去年まで大樹の天蓋の下に並べられていたベンチが無くなっていた。そして、「瞑想するな」という立て看板が立っていた。
 この木の由来は、おじいちゃんから何度も聞いている。けれども僕がまだ小さいせいだろうか、おとぎ話のような話しかしてもらっていない。
 昔、一人の聖者が現れた。その言葉は明瞭だった、人を容姿で差別してはいけない、性別で差別してはいけない、肌の色で差別してはいけない、生まれた場所の違いで差別してはいけない、言葉の違いで差別してはいけない、親の資産で差別してはいけない、その人の仕事で差別してはいけない、能力の差で差別してはいけない。皆がお互いを尊敬し合い、支え合って生きなければいけない。そう話して回った。聖者の言葉に共感して行動を共にする人達が少しずつ増えて来た時、差別を利用して利益を得ていた人達が、この聖者の意見を危険思想と考え、聖者とその支持者たちを排除するシステムを作り上げた。その目論見は成功し、聖者は追われる身となった。それまで聖者を助けていた人も次々に離れて行き、わずかに残った数人とともに冬のナンバリ峠を越え、そのふもとで聖者は倒れた。すると聖者の体から根と枝が生えて来て、やがてその場所に一本のフィカスの木が生えた。
 小さなころにはこの話をそのまま信じていたけれど、ちょっと成長したせいだろうか、この話を納得するためにはもっと情報が必要だと、最近は考えるようになっている。それでも確かな事は、この木の下で瞑想すると、木の教えが体の中に溶け込んでくるんだ。どう説明していいのか難しいけれど、木と自分の体が一つになったような感覚になるんだ。毎年それを続けることが大切なんだとおじいちゃんは言って、毎年お祈りに連れて来てくれた。今年はそれが出来ないようにされている。でも、おじいちゃんはこの事を知っていたんだろうか、どうすればこっそりと瞑想するか、その方法を教えてくれていた。僕は木の下で雨宿りをするようなそぶりで幹に近づき、背中の袋からガイドブックを取り出した、そして地図を見ているような恰好をして座り、瞑想に入った。
 気づいたとき、目の前に紺色の上下服を着た、髪を短く刈った目つきの鋭い男が立っていた。
「何している」と男は言った。
「地図をみています」と答えると、
「なんの地図だ」と聞いて来た。
「今日の宿が分かりにくいので地図で確かめてます」おじいちゃんに教えられたとおりに答えた。
しばらく僕の顔をながめて、男は「瞑想してたな」とさらに鋭い言葉で詰問し、僕の腕をつかもうとした。
 その時、2人の別の男たちが近寄って来た。目つきの鋭い男はその姿を見て、僕の方に伸ばしかけていた手を引いた。
 新たに表れた2人が彼に向かって喋った。「アマンダの公安か? なるほどアマンダの要望でここの瞑想場所は撤去しておりますぞ、しかしながら観光客を尋問する権限はあなた方には無いはずですが・・」まだ威嚇するように立っている紺色の服の男に向かってさらに続けた。「ここはガーナンと国連の共同管轄区と分かっているでしょうな。この場所の保安体制を侵害する行為は協定違反とみなされますぞ。いくらガーナンが小国とは言え、それを見逃すことはできませんな。」
 紺色の服の男は、無表情のままその場所を動こうとはしなかった。
 その時一段と強い風が吹いた。その場に立っていた者も皆、風に吹き飛ばされまいと地面にしゃがみこんだ。その風にあおられた1本のフィカスの枝が折れた、それは高く空に舞って、大通り向こうの十字路あたりまで飛んで落ちた。すると、向こうの通りにしゃがんでいたお年寄りがその枝に這い寄って拾い上げ、服の中にしまい込むのが見えた。紺色の服の男もそれに気づいた、そしてハンドトークを取り出して何か喋り、風の中をよろけながら向こうの通りに向かって歩き始めた。左右の通りの建物の影から、同じような紺色の服を着た男たちが出てくるのが見えた。少し風が弱まった中、男たちはフィカスの枝を拾ったお年寄りの後を追って走って行った。そのお年寄りというのは、ちょっとおじいちゃんに似ていた。横に居た男の人が「あれはドクター・ゲンジンじゃないか」と言っているのが聞こえたけれど、ここに来る前に何度も言われていた通り、その名前は知らないふりをした。
 「ともあれ、厄介者は去った」そう言いながら男の人は僕の方を向いて話しかけて来た。
 「君は、一人で来たのかい」
 「そうです」
 「そうか、偉いな。で、これからどうする?」
 もう少し瞑想したかったけれど、また面倒な事が起こると困るので、「今夜の宿へ行きます」と答えた。
一緒に探してやろうかと言ってくれたけど、一人で分かりますと断った。これもおじいちゃんに言われていた事だった。
 「気をつけてな。」と2人の男の人は、フィカスの木の広場から坂道を上る僕に声をかけて見送ってくれた。
 宿は、広場からそう遠くない場所にあった。でも宿の印が小さくて分かりにくいので迷って少し探し回った。日が落ちると見つけられなかったかもしれない、明るいうちに来て良かったと思った。小さな門をくぐって階段を数段降り、細長い戸を開けて中に入った。中は少し薄暗く、小さなランプが照らすフロントには若い男の人が1人座っていた。こんにちは、と挨拶して「予約していたカムラ・ゲンジンです。」と伝えると、その男の人は僕の顔を見て微笑み、「待っていましたよ。」と言い、フロアの奥の方に手を向けて続けた。「そして、君を待っていた人達が他にもいます。」さらに薄暗い奥のソファーには、さっき広場で会った2人が座っていて、僕の方に向かって手を振った。

***

 予想していた通り、アマンダはフィカスへの接触を阻止する手段に出て来た。聖者の教えを次世代に伝えるためには子供たちをフィカスの木の下で瞑想させることが必要なのだが、今後ますますそれは難しくなるだろう。そのためには、聖者の遺伝子が組み込まれたあのフィカスを別の土地で増殖させる方法を考えねばならない。種子が出来ず、挿し木でも根がつかないあの木を増やすため、成長点を手に入れる機会を狙って、敢えて嵐の日にこの谷へやって来たのだ。
 願っても叶わないような偶然に恵まれ、風に飛ばされた枝の先が目の前に落ちて来た。しかしその幸運は後に続かなかった。アマンダの公安組織はこの国連統治エリアにも広く構成員を配置していたのだ。落ちて来た枝を急いで服の下に隠し、大通りから小路へ小走りに倒れこんだその先には、既にエージェントが待ち構えていた。後ろからも数人が追って来て、私は両側から彼らに腕をつかまれ目隠しをされて、大通りで待機していた車に乗せられた。これで私の計画は失敗に終わり、自分の家に帰る事も出来なくなるかもしれないと観念した。だが、車は動かなかった。
 何時間たっただろうか、あたりが薄暗くなる気配が分かってもまだ車は動かない。車の中では数人の男たちが小声で話し合ったり、無線でどこかとやり取りしているのが聞こえた。更に夜が更け、男たちは何人か交代したようだった。私にも何度か水を飲む事が許された。夜が明け、さらに数時間たち、昼近い時間になった頃、私の目隠しが外された。私が拉致された車の周りを、数台の別の車が取り囲んでいるのが見えた。そのドアにガーナンの国章が描かれているのを見た時どれほど安心したことか。
 私が押し込まれていた後部座席のドアが開いて、ガーナン国境警備隊の制服を着た男が外から声をかけて来た。
 「今からあなたは国連とガーナンの保護下に入ります。」
 「ありがとう。」と、のどが渇いてかすれた声で礼を伝え、さらに話そうとすると彼は手で口を覆うそぶりをして続けた。
 「名前を言う必要はありません。ただ、アマンダとの協定に従い、あなたが昨日手に入れられた物を確実に処分する必要があります。もうしばらくの間彼らとおつきあいいただくことになります。あと30分我慢してください。」
 警備隊員は私にそう伝えてドアを閉めた。
 ガーナン国境警備隊に周囲を囲まれたまま、我々が乗ったアマンダの車はゆっくりと発進し、車列は低速で移動してある建物の中に入った。ごみ処理の焼却炉だった。前の席から降りた2人のアマンダ・エージェントが私を後部の席から降ろし、間に挟むようにして焼却炉の前まで歩いて行った。「木の枝を出せ。」と一人が言った。私が服の下からそれを取り出すと、エージェントはひったくるように私の手からもぎ取り焼却炉の中に放り込んだ。さらに「上着とズボンも脱いでもらおう。」と言う。「ここでかね?」と聞いたが彼らは無表情のまま私を見つめるだけだった。観念して私が上着とズボンを脱ぐと、それもすぐさま焼却炉に入れた。彼らがそこまで要求するとはガーナンの警備隊員たちは思っていなかったらしく、あわてて車から何かのカバーをはがして持って来て私に掛けようとした。だが、アマンダのエージェントはそれを阻止し、下着姿の私が他に何か持っていないかチェックし、その後やっと私を解放した。
 アマンダの車が通りの角を曲がって消えるのを見届けて、警備隊の隊長が私に声をかけて来た。
 「あまり無茶をしないでください、博士。安保理部会に連絡が取れなかったら助けられなかったかも知れませんよ。」
 「本当にありがとう」それだけ言って、疲れと解放された安心感から倒れかけた私を、隊員たちが支えて車に乗せ、本部に連れて行った。
 本部の建物に3日間留められた。ただし、その期間は私の体調回復を待つだけでなく、ある人物と私を引き合わせるための準備に要する時間でもあったようだ。3日目の昼前、私が滞在している部屋に、警備隊長が一人の若者を連れて入ってきた。
 若者の名はエスペルと言った。驚いたことに、彼も私と同じアイデアを実行していると言うのだ。ただし、彼が使ったのは芽の成長点ではなく、根の成長点だった。ある時、1本のフィカスの根が自分が住んでいる家の地下室に到達していることに気づいたのだ。いつも木の下で瞑想している時に受け取っていた感覚を、眠りの前や目覚めの時に感じるようになり、それが地面の下から沸いてくることに気づき、その根を見つけたと言うのである。彼の家は広場の坂の上にあった。カムラに教えていたあの宿だ。
 彼は自分の仕事を詳しく説明してくれた。
 「ほかの植物の様に、成長点を培養液に加えればそれだけで成長するわけではありません。成長を促すには、フィカスの木のエネルギーと共振する何かの力が必要らしいのです。それは瞑想中に脳から発生するエネルギーのようです。そして、確実に発芽させるには、成長点分離の時点から少なくとも1週間はこのエネルギーを共存させる必要があるのです。」
 「1週間、そばで瞑想を続ける、ということですか。それはかなり難しいですね。」私がそういうと、答えた。
 「ある特定の人たちは睡眠中にもそのエネルギーを発生している事を突き止めました。ずっと瞑想し続ける必要はないんです。カムラ君もその能力を持っていますよ。」

***

 宿で僕を待っていた2人は、自分たちをガーナンの国境警備隊だと説明した。そして、今おじいちゃんは移動できない所に居て、しばらくの間ここに来る事が出来ないと説明した。一緒の日には帰れないかもしれないと、出発前におじいちゃんから聞いていたので覚悟は出来ていたけど、おじいちゃんが今どうなっているのかとても心配だった。ここに居る人達はたぶんおじいちゃんの仲間だろうと思うけれど、初めて会う人ばかりなのであまり詳しく聞かない方が良いのかもしれないと考え、黙っていた。それに、皆の顔には、聞かれたらどう答えようというような戸惑った表情が見えたからでもある。夕食が終わったら僕はすぐに自分の部屋に入ってベッドにもぐりこんだ。おじいちゃんの事を考えてなかなか寝付けなかった。
 翌朝、フロントに居た若い男の人が朝食をテーブルまで持って来て僕の横に座った。
 「カムラ君、きみにはすごい力があるよ。」
 そう言って、中に小さな緑の塊が入った、薬のようなカプセルを小皿の上に置いた。
 「これが君に反応しているんだ。」そして、もっといろいろな事を説明してくれた。「成長点」とか「瞑想エネルギー」とかいう言葉の意味は良く分からなかったけれど、このカプセルの中に新たなフィカスの木の芽が入っていることは理解できた。その芽から別のフィカスの木を育てる事が出来たら、長い旅をして峠を越えなくても何時でもその木と心をつなぎ合う事が出来るようになるという事だ。でも、そうなった時、ここのフィカスの木はどうなるのだろう、その事もちょっと気になった。
 宿を出発する前、カプセルの説明をしてくれた男の人は、それを僕に渡して飲み込むように言った。そして、おじいちゃんが帰るまでトイレに行かずに我慢するように、とも言った。おじいちゃんが帰ったら、ウンチの中からカプセルを探し出して、それを育てる方法を考えてくれるからだと。
 そんなことしなくても、カバンに入れて帰れば良いんじゃないかと僕が聞いたら、持ち出す事は簡単ではないと男の人は言った。その意味は国境を出る時に分かった。入る時は手続きがほとんど無かったから気が付かなかったけれど、逆に出る時には、荷物や着ている物を隅々まで調べる人が何人も居た。食べ物も持ち出す事が出来ず、通関所の中にある売店で買い直さないといけなかった。宿で作ってもらったお弁当も取り上げられたので、持っていた残りのお金でチーズとパンを買って、それを少しずつ食べながら峠を越えた。

***

 ガーナンからの私の出国には思いのほか時間がかかった。表向きにはガーナンはフィカス保護派なのだが国内事情は単色ではなく、聖者の教えに重きを置く者たちと経済成長を重視する者たちが、互いの事を教条派とか世俗派と揶揄して勢力争いを続けているらしい。それは他の国も同様だ。公然と信者の取り締まりを行っているのはアマンダだけだが、それ以外でも大なり小なりアマンダに協力姿勢を見せる国は少なくない。水面下の協力をしている所はもっと多いかも知れない。そういう人達にとって、私がフィカスの木の研究を続ける事はとても目障りな事なのだろう。そして、どうやら、私がフィカスの木の搬出を企てているという情報は既に彼らに知られているらしかった。
 カムラが飲み込んだカプセルを回収するため、直ぐにでも出国したかったが、それは叶わなかった。それどころか、結論が出るまで更に6週間を要し、伝えられた結論はこうだ。出国前の2週間をガーナンとアマンダの共同管理棟で過ごす、何も持ち出さない、衣服も靴もすべてアマンダで準備する、そして、今後ガーナンへの入国は出来ない。
 峠を越えて来た時、そこはまだ寒い灰色の岩場だった。今度、自宅へと向かう峠の道には草の緑が芽吹く時期になっている。カムラの元に戻れるのは最初の予定より2か月以上も後になってしまった。冬の間の食料や燃料は寒くなる前に準備しているし、カムラには料理の仕方も教えている。だが、あの小さな家で一人2か月を過ごすのは子供にとって簡単な事ではない。しかし、気は焦るが年取った体は思うように動かず、峠を越える帰路には丸3日かかった。
 家の前の緩い斜面は一面緑の草場になっていた。その中に小さなテントが立っていた。近づくと、そのテントからカムラが顔を出し、私を見つけて走って来た。
 私の体にしがみついて暫く泣いた後、テントの事を話してくれた。私が帰るまでウンチを我慢するように言われていたが、とてもそんな事は無理だった。そこで、家の前の畑に出して埋めた。場所が分からなくなるといけないのでその上にテントを張って、その中で寝袋を敷いて寝た。夜は外に火を炊いたが、10日目に雨が降り、それからは雨の日や風が強い時は家の中で寝たという。夜の闇や動物の声に恐怖を覚えながら一人で過ごしたカムラを想像し、私は少し大きくなったその体をもう一度強く抱きしめた。
 久しぶりに2人での食事を終えた後テントを片付けた。テントの床を上げた時、そこに小さな木の芽を見つけた。
 カムラは確かに成長していた。その成長ぶりはこの2か月間の一人での生活で鍛えられたもの以上であると思えたのだが、それは彼と、このフィカスの芽の共鳴が成し遂げたものかも知れない。
 カムラには成長点培養の技術を教えよう、フィカスの木を更に多くの場所で育てよう。そうすれば、フィカスの木と共鳴し聖者の教えを学ぶ子供たちが世界中で増えていくに違いない。




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