スキー場にて



by 2022.06.12.



 --- シリーズ 緑恵さん、お日和はいかが #4 ---

 「天気は大丈夫かねえ」後ろの席から園田冬雄が聞いて来た。「予報では、今日の内はそんなに荒れた天気にはならないと言ってましたよ」と運転しながら僕は答え、今日じゃないとスケジュールの都合がつかないと言ったのは、そちらの方じゃないかと少々ムッとしたが、隣の席に座っているのは緑恵さんだ、いやな気持は直ぐに吹き飛んだ。「寒くないですか、もう少しヒーターの温度上げましょうか?」と緑恵さんに話しかけたら、また後ろから「いや、大丈夫です。これで良いですよ」と園田冬雄が答える。僕は緑恵さんの方に視線を向けて眉を少し上げ、そっちに言ったんじゃ無いのにねえ、と無言で小さく口を動かした。緑恵さんは笑いを抑えるように下を向いた。
 山を登るにつれ、道路に雪が積もった所が見えるようになった。本格的な積雪のシーズンにはまだ早いが、スノータイヤに履き替えて来たのは正解だった。道の終点は、ほぼ真っ白だ。拡張工事で半分使えなくなっている駐車場の端に車を停め、スキー場の建物の中に入った。

 このスキー場の後にある山の頂上の、古い山小屋を改修して、観光名所として売り出そうという計画が発表された際、僕がそこにフラワーショップを作ってはどうかという提案をしたところ、企画が採用された。当然、その話は緑恵さんが働いている花屋に持って行って、具体的な計画が進行中なのである。そして北極設計事務所と一緒に現地視察をする事になったのだ。
 今日は工事の休日で、建物の外も中も閑散としている。ホールの奥のスタッフルームへ行き、ドアを開け「お疲れさんです。ポラリスさん連れてきました」と声をかけた。
 ストーブに当たっていたスタッフは、「ご苦労さんです」と返事をして出て来て、「じゃあ、リフトの方へ案内します」と階段を先導した。階段の先には武骨な工事用ゴンドラが待っていた。
 「おう、なかなかシュールな乗り物ですな。3人、大丈夫ですか?」園田冬雄が言った。
 「8人乗りという事になってますから、重量的には余裕です。ただ、山の上の方では風で少し揺れるかもしれませんよ」スキー場スタッフはそう言って僕たちをゴンドラの中に導き、ドアの鍵の扱い方を説明した後、「じゃあ、仕事が終わったら携帯に連絡ください。電話もあるんですが、離れている時がありますから」と言って出て行った。そして階段の横の操作室に入り、僕たちが乗ったゴンドラを送り出した。

 山小屋の改修は予想以上に進んでいて、外装はほぼ終わっている。広い窓が多く、吹雪の時に耐えられるのかと少し心配になったが、まあ冬山の景色が売りでもあるし、その点は充分考慮されているのだろう。だが、内装は殆ど手付かずの状態だった。フラワーショップの候補区画をいくつか決めて、これから他のテナントと突き合わせていく必要があるだろう。あちこち見て回っているうちに、外を見ると空の雲行きが怪しくなっていることに気づいた。雪混じりの風が強くなっている。そろそろ降りる準備をすべきだな、と思った時、突然灯りが消えた。あわてて下に連絡を入れた。下で待機しているスタッフの声も焦っている様子だ。
 「どこかで送電線が切れたようです。電力会社に連絡取ってますからしばらく待ってください」
 「自家発電できないの?」園田冬雄が聞いた。
 「今の自家発電の電圧ではゴンドラは動かせないんです」
 「おいおい、マジかよ」園田がつぶやく。
 新しい情報が入ったら連絡しますといって電話は切れた。僕たち3人はしばらく無言で立ちすくんでいた。だが、そんな余裕は無い事に気づいた。
 「ひょっとしたら、今夜はここで過ごす事になるかもしれませんよ。最低、暖房と水と確保しなくては。明るいうちにもう一度調べて回りましょう」そして、改めて3人で建物の中を探索する事になった。
 ロビーの中央に暖炉が設置されていた。火を起こす手段が無いと心配したが、園田冬雄がライターを持っていた。「園田さん、タバコ吸うんですか」と聞くと、「人前では吸わないけどね」との返事だった。建物の裏には、前の古い壁や天井を壊した後の木材がまだ積まれていて、これを暖炉のそばに運び込んだ。ポリバケツが数個あったので、これも持って来た。雪を詰めて暖炉のそばで溶かせば、トイレ用の水に使えるだろう。飲み水は、誰かが置いて行ったペットボトルが丁度3個あった。それだけだったが、これも最悪の場合、雪を溶かして飲む事は出来る。だが、食べ物は見つからなかった。
 動き回っている間に日が沈み急に寒くなった。暖炉の前にソファーを運び3人並んで座った。最初のうちは、まるでキャンプに来たような高揚感さえ覚えたものの、外の風が強くなり、窓に雪が積もり始めると一気に不安が増した。緑恵さんを連れて来たことを後悔した。「緑恵さん、大丈夫?」と聞いたら、「大丈夫です。ボディーガードが2人も居るんですもん、心配なんか無いですよ」と笑顔で答えてくれた。だが、気を使ってくれてるなと思うと、更に後悔が増した。

 翌朝、明るくなったころに電気が通じた。その後に、下のスキー場から僕の携帯へ「送電線が修復できました」との連絡が入った。だが、外は猛吹雪である、「今はゴンドラの運転再開は難しい」とも言われ、僕たちはまだ山を下りる事が出来なかった。目が覚めてしばらくの間は、暖炉の火を強くしたり、窓の外の景色を見に行ったりなどして歩いていたが、そのうちに空腹と気疲れで動くのがおっくうになり、僕と園田冬雄はソファーに座りっぱなしになった。一方、緑恵さんは元気に動き回っていた。どこかからヤカンを捜してきて、雪を溶かしてお湯を沸かした。工事途中の床に積まれていたカンナくずの中から何かをより分けて、それをお湯の中に入れ、これもどこかから探してきたガラス瓶をカップ代わりにして注ぎ分け、僕たちに渡した。「杉茶です、どうぞ。少しは気持ちが落ち着くと思います」と、説明した。確かに杉の木の香りがして、ちょっと落ち着いた気はしたが、空腹は満たせず、元気ハツラツとはいかない。男2人はぐったりと横になったままだった。
 昼過ぎになっても強風は続いたが、雪雲の間から時々日差しがこぼれるようになった。すると、緑恵さんが、「ちょっと2階に行きますね」と言って上の階に上がって行った。丁度僕の座っている位置から、狭い隙間を通して階段の壁の鏡が見えて、そこに写る緑恵さんの姿が一部だけ確認できる。緑恵さんは服を脱いで窓のそばへ行き、日の光を浴びているようだった。彼女の褐色の肌が鏡の視角から消えた後、僕は再び暖炉の方に向きを変え、そのうちにウトウトし始めた。
 2-3時間経っただろうか、うたた寝していた僕たちを緑恵さんが起こした。薄い黄色の液体が入ったボトルを持っていて、「少しカロリー補給できるかもしれません。飲んでみますか」と、それをカップ代わりの僕たちのビンに注いだ。少し暖かくて、かすかに独特の匂いがした。園田冬雄は、一口だけ口に含んだ後「ちょっと、この匂いは無理かな」とビンを横の机の上に置いた。
 それを見た緑恵さんは、「じゃあ、こうしましょう」と裏口に走り、雪の塊を持って来てビンの液体の中に入れた。「冷やしたら、あまり匂いはしないと思いますよ」と、もう一度冬雄に渡した。冬雄は手に持って匂いを嗅ぎ、うなづいて、その液体を飲んだ。「少し甘い」と言って飲み干した。それからも何度か、緑恵さんは2階に上がっては淡黄色のこの飲み物を持って来てくれた。

 3日目はさらに吹雪の勢いが増して山頂にくぎ付けとなり、ゴンドラが運転再開されたのは4日目の朝になった。僕たちはゴンドラに乗って登って来たレスキュー隊に抱えられて山を下りた。緑恵さんが提供してくれた飲み物の効果だろうか、僕と園田冬雄は比較的元気だったが、逆に緑恵さんは救急車に乗る頃から急にぐったりして、僕たちよりも先に病院に搬送された。
 僕もその後から病院へ送られて検査を受けた。様子を見るため一晩入院したが、翌朝には「異常ありません」という事で退院になった。
 病院の窓口で退院の手続きや支払いをしていると、玄関から、緑恵さんが働いている花屋のマスターが入って来るのが見えた。彼の名前を忘れてしまったので、「緑恵さんちのマスターさん」と大きな声で呼びかけた。
 「おや、あなたでしたか。今回は災難でしたねえ、もう大丈夫なんですか?」
 「僕は大丈夫です、もう退院して良いと言われたんですよ。緑恵さんもこの病院だったんですか?」
 「そうです、そうです。緑恵さんに荷物を頼まれましてね、持って来た所なんですよ」そう言って緑色のバッグを少し持ち上げて僕の方に見せた。
 「僕も一緒に面会に行って良いですか?」と強引に依頼すると、マスターは少々戸惑った様子を見せたが、
 「そうですか、わかりました」と言って、一緒にエレベーターに乗った。
 病棟に行くと、病室には入れないが病棟前の面会室で会う事が出来ると説明され、「ちょうど今、一番奥の8番面会室におられますよ」と伝えられた。奥に歩いて行く途中で、マスターが立ち止まった。
 「しまった、もう一つ頼まれた物を忘れて来てしまいました」そして僕に緑色のバッグを渡し、「急いで取ってきますから、先に行ってこれを緑恵さんに渡しておいてください」と言って急ぎ足でエレベーターホールへ引き返して行った。
 一番奥の8番面会室に近づいた時、その中から声がした。先に面会に来ていた誰か別の人が話しているらしい。話の内容は、どうやら病気にかかわるプライベートな事だった。聞かない方が良いのじゃないか、と考え、僕はゆっくり体を反転させ、忍び足で面会室から離れた。
 だが、聞き耳を立てたわけではないが、会話の一部が聞こえた。
 「緑恵さん、あなた日光を浴びすぎたんでしょう。気を付けなさいといつも言ってたじゃないの。グリフロジン飲んでいたって高血糖は防げないのよ・・・」

(解説:グリフロジン製剤=SGLT-2阻害剤、糖尿病治療薬、腎臓での糖再吸収を抑制するので尿中の糖が増える)




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