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by 2022.06.12.



 --- シリーズ 緑恵さん、お日和はいかが #2 ---

 ここしばらく、緑恵さんの姿を見ない。最近体が重い気がするのは何故だろうと考えてみて、通勤の途中でこの店の前を通り、彼女のさわやかな香りを嗅いで一日の活力を得ていたのだと再認識した。彼女の代わりに店に出ている店員さんに、緑恵さんが今どうしているか聞いてみた。「すみません、私はアルバイトなので、その辺の事情は全然分からないんです」という返事だった。
 何日か後、店の奥でグレイヘアーの男性が作業しているのを見とめ店に入った。何度か見たことがある人物だ、店のマスターかも知れないと考え、声をかけた。「ちょっとお伺いします。お店の方ですか?」
 グレイヘアーの男性は振り向いた。ひょっとして緑恵さんと同じ肌の色をしているのではないかと思っていたが、やや色黒ではあるものの通常のアジア系の色だ。「いらっしゃい、何の御用でしょうか」彼はにこやかな顔で返事した。
 「あの、緑恵さんは、もうここには来られないのでしょうか?」
 すると、男性はまたニッコリと微笑み、「緑恵さんは今、旅行中です。初恋の相手に会いに行ってるんですよ」と言った。それを聞いて僕は頭の中が真っ白になり立ちすくんだ。今まで緑恵さんに対してそんなに強い思いを持っているとは思っていなかった。けれど、こんなに長い休みを取って出かけて行くほどに彼女が今でも初恋の人を慕っていると知って、僕の心はこんなにも動揺している。
 僕がよほど落胆した表情をしていたのだろうか、マスターがあわてて付け加えた。「誤解しないでくださいね、緑恵さんの初恋の相手と言うのはちょっと変わってるんです」
 そして、「彼女が送って来た写真がこれです」と言ってスマホの写真を見せてくれた。山登りの装備を身に着けた緑恵さんが、大きな杉の木を背にして写っていた。マスターが言っている事の意味が分からず、「この写真が、どうしたんですか」と聞いた。
 「緑恵さんの初恋の相手はね、この国で一番背が高い杉の木なんだそうです」
 「え、杉の木・・ですって」
 「そうです。変わった相手ですよね」マスターは、しかし、楽しそうに言った。
 「一番高い木って、それ、何処にあるんですか?ああ、そうか、林野庁のホームページとかで探せば分かるか」
 緑恵さんの初恋の相手とやらを、僕も一度見てみたいものだ、と思ったのだが、マスターは<違う違う>と人差し指を左右に振ってこう言う。
 「その方法ではヒトが調べた範囲しか分かりませんよね。この国で一番高い木は、それとは別だそうです。緑恵さんは木の話が分かるらしくてね・・・ところで、木たちは、根っこや真菌の菌糸で繋がって情報をやり取りしてる、という事はご存知ですよね。つまり、木々の間で自他ともに認める一番背が高い杉の木が、この木、という事ですね」
 マスターは、更に楽し気に続けた。
 「でも、それが何処にあるかは教えてくれないんですよ。この写真も、帰りの列車の中で、別のカメラの画面を写して送られた物です。位置情報が分からないようにしてるんですね。という事ですから、もうすぐ帰ってきますよ」

 それから数日後、出勤途中で花屋さんの前を通り、店の中に緑色の髪が動いているのを見つけた僕は、はやる心を抑えて中に入った。今日は遅刻も欠勤も覚悟だ。
 「いらっしゃいませ」、とあの清々しい声であいさつした緑恵さんは、店の奥でマスターと一緒に座り、机の上に何かを広げていた。
 「何を出しているんですか」と尋ねると、
 「緑恵さんの、初恋の香りを捜してるんです」とマスターが答え、そう言いながら彼は何種類かの葉っぱや花びらに、小瓶の液体を小さなブラシで塗っていた。
 立ち上がってこちらに向かおうとした緑恵さんに手を向けて押し止め、僕は「そのまま続けてください。今日は時間は大丈夫ですから」と先ほどの覚悟を決意に変えて言い、2人が座っている机に近づいた。
 「これ、何です?」小瓶を指さして聞いた。
 マスターが返事した。
 「最近発売された男性用のオーデコロンです。緑恵さんが言うには、数か月前に、この香りを付けた人が店に入って来た時、初恋の杉の木を思い出したんだそうです。でも、オーデコロンの香りだけじゃないんですよね、あの時に店の中に置いていた植物の香りと混ざり合った匂いが、ちょうどその香りになったんですね」
 緑恵さんがその後を続けた。
 「あの時は、花や草木の入荷が一番多い時期だったんです。その種類も入荷先も記録はあるんですけど、その花や木が育てられた環境の違いまでは判りませんものね。こうやって、試しているんですけど、やっぱり同じ香りを再現するのは難しいです」
 「緑恵さんの嗅覚は、ウルトラ・スーパーだもんね」マスターは、また楽しそうに言った。

 その日の会社帰り、僕は生まれて初めてデパートの化粧品売り場へ行った。数か月前に発売されたというオーデコロンを見せてもらい、匂いを確かめて買った。
 だが、ちょっと気になる事がある。あの花屋さんの近くを通る男たちが何人も、最近同じ匂いをさせながら歩いているのだ。





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