全生命の敵



by 2021.02.21.



 やめた方が良いと何度も止められたが、その男は磯に近づいて行った。波がかからないくらいの所から竿を出して海面に近づけている。どんな餌を付けているか分からないが、別にそれは何でも良いし、餌を付けなくても同じ事かも知れないのに。しばらくして、波の間から細いヒモのような物がクネクネと竿の方に延びて来た。その男は、そのヒモのような物を手元に近づけ、袋から大きな鋏を取り出して切り取った。そのヒモは粘調性が高いらしく、切り取るのにかなり手間取った。
 少し離れた磯の上の岩場にはその男について来た別の2人が、岩に隠れるようにして礒辺を覗いていた。磯に居る男がヒモを切り取って、腰に下げていた容器に入れようとした時、岩場の2人はその男の後ろから別の物が近づくのに気づき、そのうちの1人が岩場の上から半身をのり出して叫んだ。
 「うしろよ、うしろから来た。早く逃げて、こっちへ逃げて。早く、早く。」
 磯に居たその男は、後ろを振り返った。だがそこから駆け出す間もなく、後ろから絡んで来た何本ものヒモのような物に巻き取られ、岩場に倒れた。
 岩の上から身を乗り出していた女が、岩を乗り越えて降りようとした。しかし、横に居たもう一人の男が後ろから抱え込んでそれを止めた。
 「無理だ、あきらめろ。行ったらあんたもやられる。」初老の男はそう言って若い女の動きを必死で抑えた。女は男の手を振り払おうと振り向いたが、相手の顔に現れた気迫に押されて力を抜いた。そして2人は磯の方向を見た。磯辺に居た男の姿は、クネクネと動くヒモかツルのような物に絡められてしまって、もう大きな毛玉のような塊としか認識できなかった。その塊はゆっくりと海の方向に引き寄せられ、やがて波の間に消えた。
 「あれを見るのは初めてか?」初老の男が聞いた。
 「以前と違う。あんなに早く動くようになっているとは知らなかった。」女が震えながら答える。
 「あの学者さんも知らなかったんだろうな。半年ほど前までは、かわいい物だったよ。手や足を延ばしたらチョロチョロ触って来るだけだった。それが今では、海岸で動くものを見境いなく引きずり込む。どんどん進化しているんだ。」初老の男はそう言いながら岩場から離れ、急ぎ足で高台の方向に歩き始めた。女も後を追ったが、途中でドロドロした青黒い粘液の丸い塊に足を取られ転びそうになり、「これは、なにか教えてくれる?」と初老の男に聞いた。
 「あれの仲間さ。最近急に増えて来た。海から打ち上げられるんだ。以前は直ぐに干からびていたんだが、最近はずいぶん長い間生きているのもいるよ。ひょっとしたら地上に進出するためのプローブなのかもしれんな。」
 「地上にあがってくるって!」
 「あれは、今までの生命体が何億年もかかって進んだ過程を、超スピードで成長しているんだ。地上で生活し始めるのにも何年もかからないかも知れない。」

 高台の小さな小屋の前に着き、初老の男は後ろの女の方を振り返って聞いた。
 「あの学者さんの事を大学に連絡しなきゃならんだろ?あんたの通信社にも。」
 「さっきの所で私のスマホ落としてしまった。ここに何か連絡する手段ある?」まだ震えが止まらない。
 「私はスマホは持っていない。」初老の男は答えた。
 「じゃあ、街に戻ってからになるわね。けど、車のキーはあの人が持っていた。」
 「私の自転車、貸してやるよ。ただし山道だから街までかなりかかる、ちょっと体を落ち着かせて、腹ごしらえしてから行った方がいいな。あ、それと、自転車は必ず返してくれよ。」初老の男は小屋のドアを開けながら言った。
 小屋の中で男は、作り置きの、野菜と芋が入ったスープのような物を温めて出した。先ほどからの震えも少し落ち着いてきた女は、それをすくいながら語りかけた。
 「あの研究員が言ってた。あんたは、あれに詳しいんだって?」
 「特別詳しいわけじゃないよ。あれがどんなものか、たいていの者は知ってるだろ。核酸が6種類ある全く別の生命体なのさ。体を作るアミノ酸の種類も1000種類以上ある。今までの生き物は遺伝情報が4種類の核酸で出来ていて、利用できるアミノ酸が30種類足らずなのと比べると、桁違いの多様性を持っているわけさ。」初老の男はテーブルからソファーに座り直した。「そのせいだろうな、進化も桁違いに早い。たぶんそう遠くない将来には、この地球は、この新しい生命体から進化したやつらが支配するようになってるだろうな。」
 「なんだか、嬉しそうね。」女はスープを食べ終わり、皿とスプーンを流し台に持って行った。
 「私もね、ちょっと調べたの。この近くの海で最初にいろんな事が起こってるのが気になってね。」そう言いながら、テーブルを隔てた反対側の椅子に座った。
 「地元の新聞社の古いサーバーを動かしてもらってね、さっき聞いたキーワード入れて記事を捜したのよ。何十年も前のコラムで面白い記事を見つけた。この町のスーパー・ハイスクールの生徒が核酸を操作して遺伝情報を持ったコアセルベートを作った、っていう記事。結局のところは、彼が作ったと言ってたコアセルベートは他の人には検出できなくて、その後その高校生は転校したんだって。でね、その記事を見つけた後、データ画像をそれこそ隅から隅まで調べて、その高校生が提出したっていう論文を見つけたのよ。」
 女はソファーに座っている男の方を見たが、彼はソファーに体を沈めて目を閉じていた。聞いているのか眠っているのか分からない。女は続けた。
 「論文は、あの研究員も一緒に見てくれた。そして、その高校生が新しい核酸を合成していた可能性があるって言うのよ。その高校生が作った生命体が消えてしまったのは、培養液のアミノ酸の種類が不足していたためだろうってね。もしもその新しい遺伝子が何かの細胞に入り込んで、新しいアミノ酸を利用できるようになったら、それは生き続けるだろうって。あの研究員も楽しそうに話してた気がする。」
 女はもう一度男の方を見たが、彼は目をつぶったまま何の返事もしなかった。
 「今、海の中で進化している新しい生き物が、自分が作り出したものだとしたら、その高校生はどう思うだろうね。ああ、もう高校生じゃないか。その生き物が将来この地球を征服する事になるなら、その人は・・・そうね、ウィルスからヒトまで、今までの全生命の敵を作ったことになるよね。」
 女は立ち上がりドアに向かった。
 「じゃ、自転車借りるね。」そして出口のドアを閉める前に振り返った。
 「そうそう、おじさん小師原さんっていったよね。その高校生も小師原くんっていうのよ。もし知り合いだったら、戻った時に教えてね。」そう言ってドアを閉めた。




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